江戸幕府は黒船来航まで200年以上、鎖国政策を続けた。評論家の八幡和郎さんは「ロシアと領土問題でもめている北方四島だけでなく、樺太やカムチャッカも元々は日本の領土だった。しかし、幕府が鎖国していたために、ロシアが北方領土に進出したのに気づかず、好き放題するのを許してしまった」という――。

ロシアとの領土問題は北方四島だけではない

北方領土問題というと、国後・択捉・歯舞・色丹の四島の帰属ばかり論じられる。しかし、戦前には千島列島とか南樺太(サハリン)も日本領だったし、最近はアイヌを先住民族とする扱いについて、国内でも議論が対立している。ロシアが北海道に介入しようとし始めている兆しもあり、問題はより複雑だ。

太平洋の辺境海、オホーツク海、政治地図
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そもそも、なぜ日本列島のすぐ近くにあるオホーツク海沿岸が、遠いモスクワを首都とするロシアの領土になったのか誠に不思議である。それは、徳川幕府が鎖国という愚劣な政策をとったために、ロシアの進出に気付きすらしなかったからなのであって、賢明に動いていればオホーツク海は日本の内海になっていてもおかしくなかった。

同じ時期に、清国では康煕帝がロシアの進出を断固として阻止するために、イエズス会の宣教使たちの知恵を借り、1689年にネルチンスク条約を結んでロシア人を追い出した。そこで、ロシアは日本が領土だと曖昧に認識したまま放置していたサハリンやカムチャッカに矛先を向けたのである。

その知られざる歴史を解き明かし、現代における平和ボケの教訓ともしたい。

「樺太、千島、カムチャッカ」は松前藩領だった

平家物語』には、平宗盛が蝦夷や千島に流されても、生きていたいといったことが書かれているとおり、平安時代の人々は蝦夷のみならず千島までも日本の領土として認識していたのである。

地球上のほとんどすべての土地がどこかの国の領土になったのは、19世紀末のことであって、それまでは、無主の地とか、漠然と領土だと認識しているだけの地も多かった。日本の場合も、稲作が普及して六十余州といわれた国郡が設けられた範囲だけでなく、その外縁部も領土だと認識されていた。

秀吉による天下統一後は、蝦夷の松前氏が蝦夷以北の支配を任され、アイヌを支配下に置くとともに、1700年には樺太を含む蝦夷地の地名を記した松前島郷帳を作成して幕府に提出していた。

1715年には、幕府に対して「十州島(北海道)、樺太、千島列島、勘察加(カムチャッカ)」は松前藩領と報告している。

ところが、松前藩もアイヌを通じた間接支配に頼ったし、江戸幕府は蝦夷地の開発にほとんど興味を示さず、ロシアという国の存在も意識になかった。