シベリア以東へ進出したロシアに清は抵抗

ロシアでは、織田信長と同世代のイワン雷帝がロシア中心部からキプチャク汗国が分裂してできたモンゴル人の汗国群を一掃し、バルト海、黒海への出口を求めての戦いを始めた。しかし、苦戦が続き、バルト海には17世紀末のピョートル大帝、黒海には18世紀後半のエカテリーナ女帝の時代まで進出できなかった。

しかし、シベリアは意外に早い時期にロシアの領土になった。シベリアの名はオビ川支流域にあったシビル汗国に由来する。ウラル以西では毛皮になる動物が獲り尽くされて不足したので、1598年に毛皮商人のストロガノフが私兵を使ってシビル汗国を滅亡させた(ビーフ・ストロガノフは彼の子孫の発明)。

毛皮商人はさらに東へ進み、オホーツク(オホーツク海最北部の港町)は1648年に、内陸のイルクーツクを4年後の1652年に手に入れた。

これに危機感を持った清の康煕帝は、顧問として使っていたイエズス会の宣教使に命じて、近代国際法に基づいたネルチンスク条約をピョートル大帝と結ぶ交渉を成立させ、交易の保証を条件にスタノボイ山脈を国境として、その南からはロシア人を追い出した。この国境は、19世紀後半まで維持された(アヘン戦争後になってロシアが1858年のアイグン条約で黒竜江左岸を、1860年の北京条約で不凍港ウラジオストックを獲得)。

江戸幕府がロシアに気づいたのは1771年

そこでロシアは、天下太平の夢に酔っている江戸幕府に気づかれずに、オホーツク海沿岸を進み、1700年ごろにカムチャッカを手に入れた。

日本がそうした動きを知ったのは、1771年になって、戦争の捕虜としてカムチャッカに抑留されていたハンガリー人ベニョフスキーという人が脱出に成功して阿波と奄美に立ち寄り、カムチャッカや千島へのロシアの進出ぶりを報告してからだ。

これに驚いて書かれたのが、工藤平助の『赤蝦夷風説考』や林子平の『海国兵談』であって、田沼意次は遅ればせながら蝦夷地開発や防衛に前向きの姿勢を見せた。しかし、田沼を失脚させて政権を取った松平定信は、蝦夷地を下手に農業開発などして住みやすくしたらロシアに狙われるだけと考え、開発をやめるなど迷走を繰り返すことになった。