人口は2万5000人→3万人に急増した

今思い返せば、イケアは引っ越しの1年前にオープンしたばかりでラッキーだった。ベッド、本棚、仕事机、洋服ダンス、ブラインド、カーテン――。結果として、カリフォルニア時代と同様に自宅の中は家具のほとんどがイケア製になった。

イケアが新宮に強烈なインパクトをもたらしたのは想像に難くない。人口2万5000人程度にすぎなかった町に世界的なブランドであるイケアが進出し、町の知名度が一気に上昇したのである。イケア進出から3年後の2015年には新宮の人口は早くも3万人を突破し、全国市町村の人口増加率ランキングで日本一に躍り出たのである。

イケアの登場をきっかけにイケア以外の人気チェーン店も競うように新宮へ進出している。九州全域からやって来る顧客の取り込みを狙ったのである。同業種ではニトリやサコダが進出したほか、コーヒーのスターバックスや衣料品のユニクロ、スポーツ用品店のヒマラヤ、ホームセンターのカインズも出店。街全体の景観は一変し、ショッピングモールが建ち並ぶアメリカ郊外のような雰囲気を醸し出している。

新宮中央駅の駅前広場とイケア福岡新宮(撮影=牧野洋)

「狭間」と言われた街がなぜイケアに選ばれたのか

そもそも新宮町はどのようにしてイケア誘致に成功したのか。正確に言うと、新宮はイケアに的を絞って誘致活動をしていたわけではない。新宮がイケアを選んだのではなく、イケアが新宮を選んだのである。

イケアに選んでもらうためには魅力的な条件がそろっていなければならない。そこにはいわば「街おこしのイノベーション」があった。

もともと新宮は戦後に工場地帯として開発され、町の地理的中心部は開発から取り残された農地として存在していた。本来ならば地理的中心部は街全体の核を担うべきなのに、既存市街地から離れた「狭間(はざま)」と言われていた。1990年代後半になって街の活性化に向けた取り組みが動き出した。

ポイントは大きく3つあった。(1)下水処理場を整備する、(2)JR新駅を設置する、(3)大型商業施設を誘致する――である。最大のハードルは下水処理場だった。誰もが下水処理場の必要性を認識していながらも、どこに建設するかで合意にいたらず、前へ進めなかった。どの地区も「下水処理場=迷惑施設」と思い込み、押し付け合いになっていた。