この地の人々の創意工夫の歴史は、宗教施設についても例外ではない。御徒町には不思議な形の寺が残っている。
御徒町は上野公園にほど近い。同公園の大部分が、元々は徳川将軍を祀る江戸の王権聖地・寛永寺だったことは知られているだろう。かつては、上野の山から御徒町・浅草方面にかけて無数の寺が存在していた。とげぬき地蔵として有名な巣鴨の高岩寺もかつては上野山下にあった。現在の岩倉高校がその跡地だ。
現在も残る「アメ横の女神」
界隈の寺の多くは度重なる火災、市区改正、大震災、戦災で他所へと移転した。そんな中、現在でも残っているのが下谷の摩利支天(まりしてん)として知られる徳大寺である。同寺はまさにアメ横のど真ん中にある。摩利支天は陽炎が神格化されたもので、インドの宗教文化の気配を濃厚に残した神だ。陽炎には実体がないために傷つかない。それゆえ、武運長久を願う武士の守護神として信仰を集め、楠木正成や前田利家が摩利支天像を帯びて出陣したといわれる。
徳大寺も第2次大戦で焼失し、郊外に再建する話が出たが、「利益追求が激しい盛り場にこそ寺があるべきだ」という当時の住職の考えから、現在の場所に再建された。1964年、全伽藍が再建され、本堂正面には吉田茂揮毫の「威光殿」の額が掲げられた。このときから徳大寺は、階下に商店が入った、鉄骨コンクリート製の珍しい寺院になる。「寺に人の流れを断ち切られたくない」というアメ横の商店主たちからの要望があり、立体構造になったのだ。
現在でも、徳大寺へは階段を上って参詣するようになっている。そして1階部分やその周囲にはアメ横らしい菓子屋・食品店・スポーツ用品店・100円ショップなどがある。再建直後には、1階には純喫茶とバイキング・レストランが入っていた。住職がお布施や寄付を檀家に求めることに疑問を持っており、寺自らが資金を稼ぎ出す形を模索した結果だ。伝統的な寺院の姿に固執せず、自らで稼ごうとする寺社の先駆と言っていいだろう。