高架下にバラックが並んだ戦後
終戦後、御徒町の高架下には、コンクリート支柱を大黒柱にして竹とムシロで作ったバラックが立ち並んだ。だが、そこで暮らした人々を、現代のホームレスとひとくくりにするのは正確ではないようだ。上野御徒町界隈で青年期を生きた作家・色川武大(1929~89年/別名・阿佐田哲也)は次のように書いている。
ちょっと註釈をいれるが、浮浪者というのは、当時は、戦災で家や職を失い、或いは家族関係が半端になってしまった者たちのことで、いわゆる根っからの乞食とはちがうのである。(色川武大『花のさかりは地下道で』)
住人の多くは、戦災で家財を失った人々や引揚者などの戦争被害者であった。家の中には乾電池式の電気やラジオがあり、コタツや仏壇もあった。
私はまだ濡れている服を気にしながら、ドサ健に誘われるまま焼跡を歩いて御徒町まで行き、国電の高架沿いにポツンと建ったバラックに入った。
それはしもた屋に見えたが、入口に半紙が一枚張りつけてあり、かに屋、と小さく書きつけてあった。「朝飯おくれ 、二つだ――」健の一言で、銀シャリと、アツい味噌汁、むろ鰺の干物、新香などがひと揃えずつ運ばれた。私にはそのどれもが夢の中でしか口にできないようなものばかりだった。(阿佐田哲也『麻雀放浪記(一)青春編』)
国が用意した引揚者向けの収容施設は燃料不足による停電が多く、食べ物も粗末な配給品であった。だが御徒町の高架下ならば、配給品よりもおいしくて栄養のある食べ物をアメ横で仕入れられたし、銭湯・寄席・映画にも行けた。高架下の住人は、より良い生活を求めて移り住んだのである。
住民が増えれば自治が始まる
上野駅地下道で暮らしていた人々も、徐々に御徒町に合流していった。住人が増えれば自然と自治活動によって風紀と治安を維持しようとする運動が起き、1948年には勤労実践文化同盟という組織が作られた。1949年の総選挙では、すでに高架下に「定住6カ月」ということで、高架下住人のうち56人に選挙権が与えられている。
とはいえ、不法占拠がいつまでも看過されるわけもない。1951年、東京都民生局が、都内の集団仮小屋の一掃を念頭に、6カ所で実態調査を行っている。御徒町には180世帯300名が暮らしていたが、廃品回収業や人夫による収入もあり、要保護世帯はほとんどなかったという。結局1955年、上野警察署と台東区役所土木課が連携してバラックは取り壊された。敗戦から10年間、戦争で何もかも失いながら、高架下という都市の空白地帯でしぶとく生き抜いた人々がいたのである。