そもそも御徒町という名前は、何に由来するのだろうか。江戸期、上野御徒町界隈には、寺に加えて大名屋敷が並んでいた。鳥居丹波守、堀左京亮という落語『黄金餅』で有名な家のほかに、藤堂和泉守、加藤出羽守、宗対馬守などの屋敷が並んでいた。そして、これらの大きな屋敷の間を無数の下級の武士の家が埋め尽くしていた。騎乗が許されなかった徒士(かち)である。

徒士の乏しい俸禄だけでは生活が立ちゆかない。そのため、彼らはさまざまな内職を行った。わずかな農地に野菜を植え、観賞用の金魚や季節の虫の飼育を行った。時代劇でおなじみの傘づくりや提灯張り、つつじなどの観賞用植物の栽培も盛んであった。入谷の朝顔市のルーツも徒士の内職だ。

このように、上野御徒町界隈の手仕事文化の源流は江戸期にさかのぼる。もちろん、職人も大勢住んでいた。かんざしや帯留めといった手間のかかる装飾品を専門とする職人が多く、大名家や大奥からの発注もあったという。当然、伝統和小物の職人が多かったが、敗戦がそれを一変させる。

徒士(かち)からインド人へ

まず、米兵をターゲットにした時計バンドを専門とする業者が御徒町に集まった。そして復興が進むにつれて、指輪やネックレスを作る店が現れた。こうして日本最大にして世界有数の宝飾問屋街が誕生する。

現在、「2k540」から昭和通りのほうへ進むと、無数の宝飾店が立ち並ぶ。通りには、ルビーストリート、サファイヤストリート、ダイヤモンドアベニューといった名前がつけられている。最盛期には1000社もの問屋が存在し、4兆円規模の取引が行われていた。面白いのは、宝石をきっかけに異文化も流入してきたことだ。

「激安ダイヤモンド」の垂れ幕が並ぶ宝飾街(左)。通りの名前も宝石にちなんでいる。

御徒町には無数の飲食店があるが、なかでもインド料理のレストランが目立つ。これはバブル期を中心に、宝石大国であるインドの業者が御徒町に進出し、それと共に食文化も入ってきたためだ。宗教という点で見ても、御徒町にはモスクもあれば、日本では珍しいジャイナ教寺院もある。いかにも下町という雰囲気の中を歩いていて突然モスクが現れると驚くが、実は御徒町の来歴が呼び寄せたある種の必然なのである。

一見マンションのような、御徒町のモスク(著者撮影)

このように考えれば、ものづくりを掲げる「2k540」がなんの脈絡もなしに作られたわけではないことがわかる。御徒町の高架下の周りには、昔から創意工夫に長けた人々が暮らしてきたのだ。

再開発とひとくちにといっても、さまざまな形がある。特に高架下は、都心において広い用地を比較的容易に確保できる絶好のスペースだ。リーズナブルな居酒屋が並ぶ高円寺などが典型といえる。御徒町のように、土地の歴史を基本コンセプトとして取り込む手法は良いモデルになるのではないだろうか。売られる物は違っていても、ものづくりや職人仕事といった深い部分での連続性がある。最先端の店を回りながら、江戸の歴史から南アジアの文化まで味わえるのは、ほかの街ではできない体験である。

岡本亮輔(おかもと・りょうすけ)
北海道大学大学院 准教授。1979年、東京生まれ。筑波大学大学院修了。博士(文学)。専攻は宗教学と観光社会学。著書に『聖地と祈りの宗教社会学』(春風社)、『聖地巡礼―世界遺産からアニメの舞台まで』(中公新書)、『江戸東京の聖地を歩く』(ちくま新書)、『宗教と社会のフロンティア』(共編著、勁草書房)、『聖地巡礼ツーリズム』(共編著、弘文堂)、『東アジア観光学』(共編著、亜紀書房)など。
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