アイゼンハワー政権時代に副大統領を務めていたリチャード・ニクソンが1953年に来日した際、「憲法9条を作ったのは間違いだった」という発言をしたことは、確かに有名である。だがニクソン発言は、本当に憲法典の仕組みに関するものだっただろうか。政治運動の方向性の話として、9条削除を求めたにすぎない発言ではなかっただろうか。

国際法を無視した「自衛権」論の不毛

日本の憲法学者たちは、無意識のうちに強力な「国内的類推」の推定をかけ、恣意(しい)的な結論を導き出す。集団的安全保障=世界警察に類するもの、個別的自衛権=自然人の正当防衛に類するもの、と推定し、前者が機能しないと、ただ後者だけが残される、という世界観を自明視しがちになる。

そこですっぽりと抜け落ちてしまうのは、国際法特有のその他の制度的仕組みである。例えば国連憲章51条の集団的自衛権について考えてみよう。

憲法学者は、国際法特有の制度を謙虚に学んでから憲法と国際法の関係を論じようとはせず、むしろ集団的自衛権を定めた憲章51条を、「本来の(個別的)自衛権とは論理構造を全く異にする異物です」(石川健治「集団的自衛権というホトトギスの卵」『世界』2015年8月)などと描写する。そして、「同盟政策を否定する日本国憲法9条の解釈にもちこもうとしたとき、再び集団的自衛権の異物性があらわになった。(中略)それが国際法の常識に反するという見方もあるようですが、むしろ国際法上の自衛権概念の方が異物を抱えているのであって、それが日本国憲法に照らして炙(あぶ)りだされた、というだけ」(石川健治「憲法インタビュー安全保障法制の問題点を聞く」『Ichiben Bulletin』2015年11月1日)などと主張する。

集団的自衛権の「異物性」とは、いったいどういう意味なのだろうか。国連憲章51条は、集団安全保障の機能不全の場合に、補完的措置として集団的自衛権を行使することを容認する条項である。「平和愛好国」である国連加盟国が、「国際の平和及び安全を維持するために力を合わせ」、集団的に行動することを容認するのでなければ、自衛権は机上の空論に終わる。

憲法学者の方々は、国家の自衛権の発動はそれ自体が公権力の発動であり、自然人の正当防衛のようなものではない、という点を理解しようとしない。結局のところ安保理が加盟国に行動を勧告する事態に至るかもしれないとしても、それは「世界政府の世界警察」とは違う。あくまで、より広範な共同行動で対処する、ということにすぎない。集団安全保障も、個別的自衛権も、そして集団的自衛権も、国家が持つ正当な公権力の行使の積み重ねの上に成り立っている。国連憲章は、それを国際法が認めていることを明らかにしているのだ。