当時の日本の状況を考えれば、国連に集う「平和を愛する諸国民」の集団安全保障体制を信頼して、自国の安全を図っていくという宣言は、自然なものだっただろう。1946年7月9日の憲法制定議会において、吉田茂総理大臣は、国連「憲章に依(よ)り、又国際連合に日本が独立国として加入致しました場合に於(おい)ては、一応此の憲章に依つて保護せられるもの、斯(こ)う私は解釈して居ります」と答弁している。
憲法前文と9条を素直に読めば、それらが、日本が第2次世界大戦後の国際秩序の中で自国の安全を確保していくことを宣言した条項であることは、明らかである。9条の解釈は、国際法体系の中で行っていくのが、もっとも正当な解釈だということだ。
「逆コース」は憲法解釈の前提を変えたのか
ところが多くの憲法学者は、これを否定する。冷戦勃発によって国連の集団安全保障体制が機能しないことが明らかになったとき、9条は国際法システムから切り離されて、孤高の絶対平和主義の規定になった、などと説明するのだ。そのときアメリカは、自分が作ろうした国際法のビジョンを裏切って、自分が押し付けた日本国憲法の理想も裏切って、冷戦時代の汚い国際政治の都合で日本に再軍備を迫った、と描写する。
こうしたいわゆる「逆コース」路線は、単に「レッドパージ」のような流れを占領軍が導入した政策的な動きであるだけではなく、憲法解釈の社会的環境を根本的に変えた、とするのが伝統的な日本の憲法学者の見解なのである。
冷戦勃発によって、日本国憲法はアメリカが「押し付けた」ものから、アメリカが否定したいものに変わった。そこで戦前の軍国主義者や親米反共主義者がこぞって改憲論者になった。しかし平和を愛する一般市民とその守護神である憲法学者は、残された孤高の憲法典を武器にして、それに「抵抗」する――。憲法学者たちはそんな世界観を生み出し、「冷戦勃発によって憲法解釈の土台が変わった」と考える。
「もはや憲法を国際法に沿って解釈することは、邪悪なアメリカの軍事戦略に加担して憲法の精神を踏みにじる行為に等しい。アメリカの圧力にも、間違った国際法の仕組みにも『抵抗』して、強く絶対平和主義を唱えることが、憲法が日本市民に求めていることだ」といった前提で、全ての推論を進めていくことになる。
だが、本当にこれは妥当な態度だろうか。憲法を起草したマッカーサーらが、「日本の自衛権まで憲法は禁止していないはずだ」といったことを後に述べているのは、すべて冷戦勃発による詭弁でしかないのだろうか。そもそも1946年当時、アメリカは冷戦の勃発を全く想像していなかったのだろうか。そして冷戦勃発に狼狽し、自分が押し付けた憲法典を否定するべく奔走し始めた、ということなのだろうか。