憲法と国連憲章、日米安保の連続性
現在の改憲論議のポイントが、自衛隊の位置づけの明晰性にあるのは確かだ。ただし、その背景にあるのは、国際協調主義を掲げる日本国憲法と国際法秩序の関係であり、さらには憲法と日米安保との関係である。もともと日本国憲法は、第二次世界大戦時に孤立していた日本が、国際社会の一員へと復帰していくために制定されたものだ。高度経済成長時代以降の日本では、その要請の切実さは、忘れられてしまった。しかし時代背景は変わっても、憲法が日本の国際社会での活躍を助けるものなのか、阻害するものなのかは、我々日本人にとって、決定的に重要な論点であるはずだ。
実際の憲法典とその背景を冷静に見れば、それらは全て調和している。そもそも常識的に考えれば、アメリカ人が起草した日本国憲法が、アメリカが主導して作られた国連憲章を中心とする現代国際法や、アメリカの外交政策の一環である日米安保体制と矛盾しているはずはないのである。
日本国憲法を起草したのがGHQのアメリカ人たちであったことは、史実として実証され、広く知られている。(例:五百旗頭真『日本の近代6 - 戦争・占領・講和 1941~1955』、中公文庫)。日本国憲法の実質的な最終原案は、ダグラス・マッカーサーの指示によってGHQの民生局(GS)が作成した、いわゆるGHQ草案である。その事実に不満を感じるかどうかは、憲法解釈にあたっては重要ではない。解釈にあたって重要なのは、日本国憲法は、(国連憲章の底流ともなっている)アメリカ憲法思想の伝統の強い影響下で起草された、という点である。
「押し付け憲法論」を忌避するあまり
ところが長い間、日本の憲法学者は、日本国憲法と国連憲章(及びそれを中心とする国際法)と日米安保体制の、調和的関係を崩すことに専心してきた。「憲法は国際法を凌駕する」「憲法は日米安保を認めない」といった、奇妙なイデオロギー的な文言解釈で、憲法理解を惑わせて続けてきた。
その背景には、「護憲派」としての東大法学部系の主流の憲法学者たちが、「押しつけ憲法」改正論を唱える「改憲派」勢力と、政治的な確執を持ってきたことがある。マッカーサーによって押し付けられた憲法は否定し、新たに自主憲法を制定すべきだ、という議論を警戒する余り、「押しつけ」にかかわる要素、つまりアメリカ人の介在を一切認めないという立場を彼らはとってきた。