「症例」をテレビで大写しする鈍感と残酷

6月、42歳の女性衆議院議員の叫び声がテレビで何度も何度も何度もエンドレスに流された。悪趣味な冗談のように繰り返されるのを聞くたび、私は「なぜ、日本のテレビメディアは喜々として『症例』を流すのだろう? 神妙そうな面をかぶる下で笑いをかみ殺したスタジオの大人たちは、なぜ口々に見当違いの批判や評論を加えるのだろう?」とその鈍感を不思議に思ってチャンネルを変えるのだった。

あのコメンテーターたちは、本気であれを「口が悪い」のだと信じているのだろうか。「優秀な経歴をお持ちなのに……人格を疑いますね」なんて思っていたのだろうか。面白いな。人格を疑うのは「正常な」人間に対してするべきことである。正気を失っている人間に向けて「人格を疑う」とコメントするのは、正気とそうじゃない人間の判断がつかない洞察力の欠如を宣言しているようなものだ。もしコメントを求められたら、適切なのは「ゆっくりお休みになって、完治されるといいですね」あたりじゃないのかな。

また、正気でない彼女に対し、大真面目に「政治家としての責任や矜持や正義や倫理」を説く、”エリート子育て評論家”の記事もあった。個別に指摘したいわけではないからあえてリンクはしないけれど、人間の精神状態が見極められない上に精神論を上からたたきつけて、何が子育てか教育なのかと鼻白む。そんな鈍い人の下で、いったいどういう種類の”エリート”が育つのだろう。

そして、やはり出てくるのが優秀な彼女の経歴批判だ。悪事や違和感は全て、経歴や生育歴のせいにするのが、エリートを憎む日本社会の十八番だ。まったく、優秀な経歴なんか持つものじゃない。「まして女ならなおさら」だ。日本のメディアを見ていると「女のくせに目立つところにしゃしゃり出るのがそもそも間違い」で、「ほらごらん、そんなところに出たがる女なんてロクなもんじゃない」と教えられる。ねえ、みんなが言いたいことって、結局それでしょう?

都議選が小池百合子氏の完勝で終わってしまってメディアがネタ切れに困った7月、また同じことが起きている。さっきの衆議院議員と同じく、精神のバランスを崩した女優が何ごとかを切々と訴える映像が、テレビの画面で連日流される。「一体彼女は夫をどうしたいのか」「本当に愛しているならこんなことはしないはず」「これ以上自分自身をおとしめない方がいい」といったしたり顔のコメントは、どこまで純粋に鈍感なのか。あるいは有名女優が心のバランスを失った様子を、みんなでさらしものにして心の底で嗜虐的な快感にでも浸っているのか? 本当はたぶん後者なのではないか、私はそう思っている。