89年10月、別の部署へ異動後に発売された。それなりの意義があって売れていくが、大きくは成長しなかった。営業部隊は「未踏の地」なので、説明が大変。他社も簡単にはついてこられないから、競争による相乗効果もない。それでも、公的な介護保険ができる際、参考にしてもらえたようだ。

介護のほうが大仕事なので、若者向けの保険は、部下に任せた。提携先の米国損保と首脳同士で決めた新商品。当時、話題になっていた「ヤッピー」(都会で知的専門職に就く若者たち)や「ディンクス」(子供がなく共に収入がある夫婦)を、対象のイメージとした。傷害保険の特約や積立保険に付けて89年2月に発売すると、業界で激化した積立保険競争と重なって、けっこう売れた。

2つの新商品とも、「何でもやる、やらせる」という先人から受け継いだ企業文化の成果。ニッチな分野でも、大事な継承だ。

自分は私立大学卒で、専門は土木工学。国立大学の文科系出身が主流を占めた社内で「どけん(土建)とほけん(保険)を間違えて入ってきたのだろう」と言われたこともある。そんなだから、ニッチな担当が続くのだろう、と思った。でも、それが損害保険の原点に触れ、領域も広げた気がする。

「上善如水」(上善は水の如し)──理想的な生き方とは水のようなものだとの意味で、中国の古典『老子』にある言葉だ。水は万物に恵みを与えていても、他と功名を争うことはない。高みを望まずに、低いところへ自然に流れていく。そして、低いところだからこそ集まって、大きな力にもなると説き、静かに力を蓄えることを求めている。ニッチな分野でも、功を焦らず、着実に力を蓄積した隅流は、この教えに通じる。

1947年7月、山口県錦町(現・岩国市)に生まれる。男ばかり8人兄弟の末っ子だ。瀬戸内海から30キロほど山に入った小さな町で、小学校時代は野山を裸足で走り回る。中学は岩国の私立に入り、農家の納屋に下宿した。高校は、兄が1人出た東京の早稲田学院。東京で結婚していた次兄の家で部屋を借りて通学。漕艇部に入り、4人乗りのボートを漕ぐ。都代表で国体にも出場し、高校生では国内最高の水準になった。