記者が気づかない秘密の動線
そこで、私は奇策を思いついた。これまで誰も使っておらず、荷物置きになっていた「非常用のドア」を用いることにしたのだ。このドアは人事課、官房長室、大臣室、事務次官室の窓側にあって、それぞれの部屋を結んでいる。ここを使えば、誰がどこの部屋に入っても7階の各部屋を自由に行き来できる。通常の業務で大臣室などを自由に出入りされてはまったくもって仕事にならないが、汚職事件という有事にあって、私はこの非常用のドアを活用することにした。
ここで心配だったのはこの部屋間の出入りを誰かに見られてしまうことだった。厚生省幹部の部屋は7階にあり、道路を隔てて広大な日比谷公園に面しているので、たぶんどこからも見えないと思ったが、遠くの建物から記者が望遠レンズで覗いたらどうなるかという心配が頭をよぎった。そこで日比谷公園を挟んで(厚生省から見て)向かい側の帝国ホテル近くのビルからこの大臣室でのやり取りが見えるかを確認することにした。ドアを開けたり、人が往来してみたり、手を振ったりもした。
結果、やはり覗こうと思えば、室内の動きまで見えることがわかった。各部屋からは日比谷公園、皇居のお堀、東京タワーなどが一望にできるので、非常に残念ではあったが、事態が沈静化するまでの間、窓はカーテンを締め切ることに決め、大臣を含む幹部には理解してもらった。
次に実施したのは、人の出入りについてルールをつくり、それを徹底することだった。そのルールとは、朝晩の出入りの1回だけは自分の部屋の出入り口を使うこと。省内の人間や記者に知られたくない部屋への出入りについては、必ず人事課を使うことである。日常的に出入りの激しい人事課に用事があるような素振りで、人事課に入り、そこから窓側の非常用のドアを使って本当の目的の部屋に移動してもらうのだ。汚職事件の動向を探ろうとした記者は、逆に静かになってしまった厚生省幹部の動向に驚いていたかもしれないが、どうして静かになったかについては確かめようがなかったはずだ。
しかし、この簡単なルールを徹底することが意外に難しかった。できあがってしまった習慣とは恐ろしいもので、ある官僚が、人事課から入って私と大臣との用件を済ませると、安心して緊張が解けたのかそのまま大臣室の表の控室出入り口から出ていこうとしたことがあった。大臣室に入った形跡のない人物が、突如として出てきたら、扉の窓から覗いている記者たちが私の作戦に気づいてしまう。そうなれば、この作戦は一巻の終わりである。出入り監視が厳しくなり、身動きが取れなくなるだろう。また、1度でも「騙された」と感じた記者連中は、ますます疑いの目をもって厚生省を取材するに違いない。出てはいけないドアから出ようとする官僚に「ちょっと待って。そこから出てはダメだ」と私は慌てて止めに入った。
こうして人の出入りがまったくない事務次官室をつくりあげたのだが、たった1度だけ、事務次官室の正面のドアが開いたことがある。それは岡光事務次官が省外へ脱出するときに、私が厚生省内100人の記者に対して行った大掛かりな陽動作戦の一幕なのだが、残念、紙幅が尽きた。この続きは次回としよう。