中国の兵法書『孫子』には、「兵は詭道なり」(始計篇)、「兵は詐を以って立つ」(軍争篇)と、二度も敵を欺くことを勧める記述がある。孫子によれば「諸外国の動向を察知していなければ、外交交渉を成功させることはできない。敵国の山川、森林、沼沢などの地形を知らなければ、軍を進撃させることはできない。作戦の基本行動は敵を欺くこと」である。

現在のビジネスリーダー向けの「孫子の兵法」本であれば、自分たちの競争状況などや商品の売り場を研究して、奇策を用いよということであろうが、かつて私は、文字通りの意味での「地形を用いた奇策」を実践したことがある。

1996年11月17日未明、後に内閣を揺るがすことになる厚生省の汚職事件「岡光事件」が、翌朝の朝日新聞に掲載されることがわかった。

厚生省全体の組織的犯罪、ひいては官僚組織すべてが関わっているような大事件に仕立て上げたい捜査当局、マスコミと、岡光事務次官の個人的な犯罪であると考えた私との闘いが、始まったのである。大臣秘書官であった私は、厚生省内に記者が殺到することを想定して手を打った。

厚生省の7階には、人事課、官房長室、大臣室、秘書官室、事務次官室が横続きで並んでおり、廊下にそれぞれ出入り口があった。人事課は官僚が日に何十人も出入りする大部屋である。問題は、この廊下であった。廊下は一直線であったが、人事課の出入り口前と、官房長室前の間ともう1つ、事務次官室の出入り口の横にも階段へと続く扉があり、記者など外部からの立ち入りを制限していた。逆に言えば、2つの扉の外側までは記者も入ることが許されていたことになる。

困ったことにその扉の上部に透明なガラス窓がついていた。記者がその窓から内側の廊下を覗くと事務次官室、大臣室、官房長室の出入りが丸見えになってしまう。朝日新聞の報道直後に事務次官室の出入りが激しくなってしまうのは危険だ。汚職に関係しているとはいえない部署の人間の出入りでさえ、出入りを見られることで関係性を疑われるのは避けたい。こちらの動きについては、何の情報も与えたくなかった。

たとえば、新聞朝刊に毎日掲載される首相動静に首相が毎晩何を食べ、誰と会っているか詳細に記載してあることを思い出してほしい。一般の読者にはさほど興味が湧かないかもしれないが、世界中の情報機関にとっては、内閣の方向性を見定める貴重な情報源になる。自民党の選挙対策委員長が首相と何度も面会すれば「選挙が近いのかな」、外務省の北米局長が面会すれば「アメリカと何かあったのかな」とおぼろげながら想像することができる。逆に、会っていることが国民に知られてはまずいケースもあり、その場合は、首相動静に載せないような処置を取る。具体的には、首相の執務室と内部で直結する官房長官室からこっそり入ったり、会食のためにホテルのレストランに入ったふりをしながら、厨房出口から抜け出して、ホテル内の別所で密会するといった方法だ。人の動きにはそれほど大きな意味がある。

厚生省7階の人の動きという重大な情報を遮断する場合、一番簡単な方法は、そのガラス窓の部分を布や紙で覆ってしまうことだ。私も当初はその方法を検討した。しかし、この方法には大きなリスクがあった。これまで記者に対してオープンに見せていた人の出入りを、突然、「一切、見せません」としてしまっては厚生省の隠蔽工作とも捉えられかねない。記者が「厚生省は悪い組織です」という空気を醸成したい中で、窓をふさぐのはリスクが大きかった。