もう一つ学んだのは、「市場は正しい」だ。自分たちが思うように金利が動かず、「こんなはずはない」と言っていたら、トレーダーとして終わる。市場は何を発信しているのか、それを率直に受け止めないと、致命傷にもなる。論理も身に付けず、「このままでやればいい」などと思っていたら、その後の銀行マン生活で先々に潜む穴を読み切れなかっただろう。

97年5月、突然、米系ヘッジファンドがタイの通貨バーツを売り浴びせた。タイは日本企業などの投資を得て90年代前半に平均9%も成長したが、中国の台頭で影が差し、96年には貿易赤字が拡大、外貨準備が減少へ転じた。その穴を突いた通貨攻撃で、92年の英ポンド危機や94年のメキシコ危機と同じ構図だった。

タイの政府と中央銀行は、残る外準を取り崩してバーツを買い、対抗した。しかし、売り攻勢は終わらず、政府は支えきれずに97年7月、ついに固定相場制から変動相場制への移行を決めた。さらにバーツ売りに拍車がかかり、タイ経済は急速に悪化した。同様のことがインドネシアや韓国へも広がり、IMFなどが救済に乗り出す「アジア通貨危機」となる。

危機に火が付く直前の3月、バンコク支店長に赴任した。ランストン証券から本店営業本部の業務部を経て、今度は新興国での金融業務。支店は、ようやく銀行業務がひと通りできる免許が下りたばかり。でも、メキシコ危機を勉強していたから、「タイでも通貨危機が絶対にくる」と思っていた。ランストンで「考え抜く」が身に付いていたし、着任後に市場をみていると、やはりおかしい。

支店の仕事は部下に任せ、大蔵省や中央銀行の幹部と会った。やがて、人脈は蔵相や中央銀行総裁へと伸びる。学んできたことを活かしていたら、いつの間にか、高い世界に登った。48歳になっていた。IMFなどの救済措置や日本などからの支援は、100億ドル規模となったが、IMFの財政管理は厳しく、タイ経済は思うようには再建が進まない。