死ねなければ、生きるしかない。大学在学中に起業

【田原】その心理状態から、よく立ち直りましたね。

【垣内】死ねなければ、生きるしかない。どうやって生きようかと考えに考えた結果、浮かんできたのが大学に行くことでした。自分が生きていくためには、歩けなくてもできることを探さなくてはいけません。そのためには知識や技術、経験が必要で、それらを身につけるためにまず大学に行こうと考えたのです。

【田原】中退しているから、大検ですか。

【垣内】はい。大検は合格して、立命館大学経営学部を受験しました。実は試験2週間前に車椅子で転倒して入院。寝たきりだったので、試験当日は滋賀にあるキャンパスまで民間の救急車で運んでもらって受験しました。無事に合格できたときはうれしかったですね。

【田原】垣内さんは大学在学中に起業しました。もともと起業は頭の中にあったのですか。

【垣内】最初に起業を考えたのは高校生のころです。当時は障害がある自分が嫌いでした。起業を考えたのも、コンプレックスを克服して自分を好きになろうという自分本位の考えからです。

【田原】大学に入ったら自分本位じゃなくなったんですか。

ミライロ社長・垣内俊哉氏

【垣内】裕福な家庭に育ったわけではないので、大学進学後はアルバイトする必要がありました。ただ、歩けないので可能な仕事は限られています。そんな中で私を採用してくれたのが、あるホームページ制作会社でした。そこで私は営業を担当して、2カ月後には営業成績が1番になりました。私は車椅子なので他の営業マンの半分ほどしか数を回れなかったのですが、車椅子だと目立つので、逆に先方に覚えてもらえたようです。このとき上司に言われたのが、「車椅子に乗っていることが営業の結果につながっているのだから、歩けないことに誇りを持て」。それまで歩けないことをマイナスとしてしかとらえていなかった私には、この考え方がとても衝撃的でした。そこから起業の目的も変わりました。自分のコンプレックス克服より、バリアバリュー、つまり障害には価値があるという考え方を日本中、世界中に広げていくために起業しようという思いが強くなったのです。

【田原】そうですか。起業するにあたって、まずどこから手をつけたのですか。

【垣内】お金がなかったので、まずビジネスのアイデアだけは練っておこうと思って、友人と2人でさまざまなコンテストに応募しました。銀行や新聞社が主催するビジネスプランのコンテストです。いろいろ応募しているうちに、13のコンテストで賞をいただき、賞金も300万円近く貯まりました。それを元手に起業しました。

【田原】ほお。賞を獲ったのは、どんなプランでしたか。

【垣内】ある新聞社さんのコンテストで評価していただいたのは、大学のバリアフリーの地図をつくる事業です。私もその1人でしたが、いまは昔と違って障害のある子どもたちが普通に小学校、中学校、高校に行き、大学進学を考える時代になりました。ただ、大学の受け入れ態勢が整っているとは言い難い。このままでは進学者数が増えないおそれがあるという観点から、大学のバリアフリーのマップをつくるサービスを考えました。

【田原】賞をもらって、大学2年生のときに株式会社ミライロをつくった。ミライロってどんな意味ですか?

【垣内】ミライロの意味は2つあります。まず、「未来への色」。そして「未来への路」でミライロです。障害のある方やそのご家族は、自分たちで決めた道を進むことが難しく、つい将来を悲観しがちになります。そうではない、誰だっていろんな色を描いたり、いろんな道を歩んでいけるんだという思いを込めて、この社名にしました。