証券の客の助言で学習塾立ち上げへ

1948年9月、鹿児島県垂水市で生まれる。父は県立高校の数学教師で、祖母と両親、弟2人と妹の7人家族。母もかつては代用教員を務め、いまナガセ専務の末弟も教諭の経験を持つ。「教育」が、永瀬家のキーワードだ。中学と高校は私立ラサール学園で、桜島まで歩き、鹿児島市行きのフェリーで通学した。帰りもフェリーで、毎日2度、錦江湾を横切りながら桜島を仰ぎみて過ごす。

東大経済学部へ進んだ68年春は、大学紛争が高まった時期。デモにも参加した。だが、ある日、主張の違う学生たちと石を投げ合い、向う脛に当たって痛い思いをしたとき、頭の中を電流が走る。「こんなことをしていて、世の中が変わるわけもない。別の方法があるはずだ」と思い、転進する。

71年春、三鷹市のアパートの部屋で、小中学生向けの学習塾を始めた。まだ生徒は数人で、看板もない。2年を過ぎたころ、夕方に空く保育園を使わないかとの話がきて「これはチャンスだ」と思う。意識はしていなかったが、のちに起業家となる伏線となる。やはり東大に入っていた次弟に上京した妹も加わり、大学を卒業時には生徒が150人になっていた。授業料は月1万円。きょうだいの学資や生活費は、十分に賄えた。

74年4月に野村証券に入り、本店営業部に配属される。部には精鋭とされた30人が揃い、新人は珍しい。当時は売買手数料を稼ぐことが第一だったが、新人はそれどころではない。担当口座はゼロから始まり、新規開拓に励む。上司に「社長の肩書が付く人の名刺を、1日に10枚はもらってこい」と言われ、会社から近い神田界隈で飛び込み営業を重ねる。

野村は2年で辞めた。もともと山っ気があったし、あるお客に野村で出世を狙うより、自分で事業をやったほうが向いていると言われ、開業資金を出してくれることになったためだ。弟も信託銀行を退社し、借りた5000万円を元手に、2人で武蔵野市に小中学生向けの「東京進学教室」を開く。

2カ月後、株式会社を設立。自分も授業を持ち、鉢巻きに竹刀を手にしたスパルタ式で教壇に立つ。やがて、都内に同じ名の進学教室があるとわかり、「東京進学」を縮めて、東進ハイスクールに改称する。

バブル期の挫折から再起をもたらした衛星による授業配信は、放送業者への進出をもたらした。だが、再び壁にぶつかり、撤退する。2005年ごろからはインターネットによる配信を始め、いつでも受けたい授業が選べる方式も導入した。どの校舎へいっても、学習ボックスには1人1台の装置が置いてある。

挑戦しては撤退した事業は、いくつも続いた。でも、「志、氣之帥也」は、変わらない。そしていま、「教育」の対象を、進学以外の世界へと広げている。

ナガセ社長 永瀬昭幸(ながせ・あきゆき)
1948年、鹿児島県生まれ。74年東京大学経済学部卒業、野村証券入社。76年に退社し、東京・武蔵野市に学習塾を開き、会社を設立。85年「東進ハイスクール」を創設。88年株式を店頭公開。2006年四谷大塚を買収。08年イトマンスイミングスクールをもつ会社をグループ化。
(聞き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)
関連記事
年1万円受験サプリは採算が取れるか
カリスマ予備校講師の「生徒の心をつかむ授業」
林 修先生が教える「東大に入れる方法」“ちびまる子ちゃんの家”が理想でしょ!
安河内哲也「入試が大学のグローバル化の足を引っ張っている」
全国20校が閉鎖!「愛と笑いの代ゼミ史」