会社組織になろうと全部私のものです。

会社組織への改組にあたって、弥太郎は、「立社体裁」という文書を起草して、「当商会は、このように会社の名を命じ会社の体を成すと謂えども、その実全く一家の事業にして他の者他の資金を募集し結社するものとは大いに異り、故に会社に関する一切の権限は、決定はすべて社長がおこなうものである」と宣言する。

これが三菱の社長独裁とよばれるものだが、要点は合本組織の会社ではなく、岩崎個人のものだということ。政府の命令に面従腹背するということになる。

従来の研究では海運事業とその周辺以外はわからなかった。しかし、最近10年ほどで湯島の三菱史料館などの研究で、弥太郎が携わった業務の全体像と資金の流れが明らかになっている。

果たして、弥太郎は悪名高い政商だったかといえば、答えは「NO」。弥太郎は結果的に成り行きで政府に選ばれて政商になった。そのビジネスに明確なビジョンがあったかといえば、それもあいまいだ。最大の成功者の一人だったが、当初から確固たる戦略があったと考えるのは早計だ。

そもそも弥太郎自身が長い迷いのなかにいた。場当たり的な多角化が成功した面があり、運がよかったとも言える。財閥としての成長は、弟弥之助などの手に委ねられる。

(松山幸二=構成 渡邊清一=撮影)