「ヨーロッパ統合」とイギリスの役割
彼(この記者はたぶん男性だろう)の議論の是非はともかく、ここには明白な怒り、息が詰まるほどの憎しみがある。つまりポルトガル人であるバローゾが、ヨーロッパ統合を正当化するためにウィンストン・チャーチルを引き合いに出そうとすることに対する怒りである。
こういう文章を書く人々のあいだでは、チャーチルはテコでも動かないイギリスの頑固一徹さと独立自尊の確たる象徴と思われている。そのチャーチルがポルトガル人であるバローゾごときにヨーロッパ連邦主義者の味方として語られるなどとんでもないというわけだ。
この争いの起源を知るには、チャーチルの言う「ヨーロッパ統合」が何を意味していたのか、そこから何を得ようとしていたのか、とりわけそのなかでイギリスの役割をどうとらえていたのかを理解する必要がある。そこで1950年6月初旬のイギリス下院での、シューマンプランとどう折り合いをつけるかについての有名な論戦をたどってみよう。それはこのプランの名前のもとになった元フランス首相からきた唐突で大胆な提案だった。
その内容は、フランス、ドイツ、イタリア、ベネルクス三国による、石炭と鉄鋼のヨーロッパ共同市場を監督する新しい超国家的な組織をつくる話し合いにイギリスも参加しないかという挑戦状にほかならなかった。この組織は将来の欧州委員会の萌芽となる高度の権限を持つことになっていた。それは各国の国会議員からなる議会と各国の閣僚が構成する協議会を持ち、最終的には欧州議会と欧州協議会に発展するのである。さらに、裁判所もつくられることになっていた。現在ルクセンブルクにある強力な欧州司法裁判所の原型である。
言い換えれば、イギリスはまさに欧州連合の誕生の場で支援を求められたのである。粘土はまだ柔らかく、形はまだできていなかった。まさにイギリスが決定的に介入できる瞬間だった。フランスの申し出を受け入れ、一緒にハンドルを握れるときだったのである。
ところが労働党内閣は、この申し出に敵意を抱くほどではないにしても懐疑的だった。イギリスはまだヨーロッパ全土で最大の石炭と鉄鋼の生産国だった。なぜこの二つの産業がヨーロッパによる支配の不可解な仕組みに屈しなくてはならないのか? 「ダーラムの炭鉱労働者はそれに我慢できないだろう」と、ある労働党の閣僚は言った。こうしてアトリー政権はこの提案には乗らず、フランスを追い返したのである。
シューマンへの返事には、興味深いアイデアはありがたく拝聴したが話し合いには参加しないと丁重に書かれていた。英仏両国民にとって、これはイギリスとヨーロッパの歴史上、決定的に重大な転換点だった。イギリスがヨーロッパのバス、列車、飛行機、自転車、その他あらゆることに乗り遅れたのである。これはイギリスが欧州連合にやっと参加したときからさかのぼること25年のことだったが、ようやく加盟したときには欧州連合の構造はイギリスにとっても、国民主権の理想にとっても好ましくないかたちに固定されてしまっていた。