忘れられないおばあさんの一言

【田原】なるほど。どうでした、地上げの仕事は。

【山下】立ち退きの交渉をするのはおもしろかったし、それが立ち退く人のためにもなると本気で信じていました。あるおばあさんと交渉したときもそうでした。おばあさんはお子さんやお孫さんとうまくいっていなかったのですが、おじいさんが遺した家に住み続けていれば、またいつかみんなが帰ってくると考えていました。僕は、「立ち退きいただければ、2年後にいまの場所に戻ってきて、部屋をもう1つもらうことができます。それをお孫さんにプレゼントすれば喜んでいただけるんじゃないですか」と話してご納得いただきました。

田原総一朗
1934年、滋賀県生まれ。早稲田大学文学部卒業後、岩波映画製作所入社。東京12チャンネル(現テレビ東京)を経て、77年よりフリーのジャーナリストに。若手起業家との対談を収録した『起業のリアル』(小社刊)ほか、『日本の戦争』など著書多数。

【田原】じゃ、うまくいったんだ。

【山下】ところがそうじゃなかったんです。マンションの完成後、おばあさんに会ったら、涙ながらに「私はあなたに人生を奪われた」といわれてしまって……。これは人生でも最大級のショックでした。自分は人を幸せにするつもりで仕事していたのに、逆に悲しませるとは思わなかった。何のために働いているのかよく分からなくなって、とりあえずお休みをいただきました。

【田原】強烈な体験でしたね。それでどうしたの?

【山下】休みの間は、アメリカやヨーロッパ、オーストラリアを回りました。お金がなかったので、ラグビーの先輩や後輩が各地で活躍しているので、彼らのところに泊めてもらいました。じつはそれがリノベーションに興味を持つきっかけになりました。

【田原】と言うと?

【山下】行く部屋がみんなおしゃれで、先輩や後輩たちから「このまえ壁をペンキで塗った」とか「前のオーナーはこうだったけど、俺はこうした」と自慢されたのです。彼らは日本にいたころ、それほどおしゃれではなかったし、そもそも部屋に関心を持つような人たちでもなかった。考えてみれば、あたりまえなんですよね。日本は新築文化なので、部屋のデザインは基本的に同じ。壁は白いクロスで、画鋲を差すのも禁止。床は木の印刷をしたビニールで、天井には蛍光灯の照明が1つ。どこも似たような表情をしているから、興味の持ちようがないのです。ところが中古を自分なりにつくり替えていく海外の住宅文化に触れたら、彼らもガラリと変わって家のことを楽しそうに語るようになっていた。その様子とおばあさんの出来事が自分の中で結びついて、人を幸せにする家づくりはリノベーションにあるのかなと。

韓国料理店を20軒経営

【田原】帰国してゼネコンをお辞めになった。すぐリノベーション事業をやるのかなと思ったら、飲食店の経営をされたそうですね。

【山下】先輩と共同で韓国料理店を経営しました。1店舗目は大阪の心斎橋。ラグビー部の屈強な男たちが手打ちで冷麺をつくるのが売りで、けっこう人気になりました。それで店を増やしていって、東京も含めて20店舗まで増えました。

【田原】どうしてリノベーションではなく飲食店?

【山下】順序としては、まず飲食店の店舗デザインをする事務所を開きました。いきなり住空間をやるのはハードルが高いので、まずは商空間からやろうと。それが軌道に乗り始めたころに先輩から「飲食チェーンを一緒にやらないか」と誘われて加わったのです。ただ、飲食店経営は先輩と金銭トラブルがあって、20店舗のところで手を引きました。いくつかの店は先輩が持って、あとは売却して会社は解散です。

【田原】それでデザイン事務所のほうだけ残ったと。そこからリノベーションをやり始めるのですか。

【山下】はい。そのころすでに住空間の仕事も手がけていました。店舗デザインでつきあいができたカフェのオーナーから、「自宅もやってくれ」と頼まれたりして。もともとやりたかったのは住空間のほう。ちょうどいいタイミングなので、東京に出てリノベーション事業を始めることにしました。