物理的なだけではなく、組織的にも壁は壊れて風通しは良くなる。メンバーの心の壁も壊れ、一体感が醸成されていく。サッカーに例えるなら、フォワードとバックスとの距離を縮め、コンパクトな布陣を形成。立ちはだかる困難な問題に対しても、強烈にプレスをかけていくのだ。

横田は「長屋世帯に似た感覚でした。みなが一つになる。一体感を醸成する、またとない機会でした」と話す。

工場全体の片づけを進めながら、従業員全員が出勤したのは5月11日。

松沢をはじめ、キリンの首脳はときどき工場にやってきては、復興を目指す現場を励ましていく。毎月11日には、大会議室で全員が集い、朝会を開いた。5月25日には、仙台工場内の倉庫・物流機能が一部稼働する。工場が、再び鼓動を始めた瞬間だった。


床のペンキを塗り替えた。

6月11日の全体集会では、大まかな工場再生計画が示される。当面の復興には50億円が投じられるのだ。

各工程も復興に向かい動いている。大部屋制は、工場の整備に伴い解除されていく。組織で戦うキリンとしての、本来の強さを求めていくように。

しかし、横田はいまでも、押し寄せる津波の恐怖と同時に、あの日にみなで食べたゆで卵の味を覚えている。多くを失ったなか、女子社員が仲間のために用意した、精一杯のゆで卵であったことを、工場長は理解していた。

「『一番搾り とれたてホップ』は必ず成功させます。そして、仙台を最高レベルの工場にさせていきますよ。何しろ、人の意思と魂により、大変な困難を乗り越えた工場ですから」

※すべて雑誌掲載当時

(宍戸清孝=撮影 キリンビール=写真提供)