車に布団と衣類を積み込んで一人で赴任

横田は、地震発生の14時46分には所用で市の繁華街に出ていた。その直後、市内でタクシーを拾い宮城野区港にある工場へと向かう。ところが、工場の手前の七北田川にかかる橋まで来たとき、初老の運転手が叫んだ。

「津波です! 川を逆流してこちらに向かっています。ここは危ない」

初めて見る光景に、横田は鳥肌が立つのを覚える。死がすぐ近くにあった。

何秒間、経過しただろうか。気が付けば、周囲でサイレンが響いている。

無言のまま、ベテラン運転手は手際よく車をUターンさせると、アクセルを全開に踏み込む。川を遡上する黒い壁のような津波よりも速く、タクシーを走らせるために。


津波で缶ビール、ビンビール、コンテナと大量の泥が流されてきて工場の床を覆い尽くした。

同じ時間、キリン仙台工場には津波が押し寄せていた。工場内の建物の屋上に避難していたのは481人。このうち129人は、一般の人たち(残りの352人が、約200人の従業員を含めキリン関係者)。

たまたま工場を見学していた人だけではなく、近隣の住人や、近くで練習をしていたママさんバレーの選手などだ。同工場は仙台市と協定を結んでいて、津波発生時の緊急避難場所となっている。仙台工場は戦前の1923年に操業を開始した、市内でも最も古い工場の一つだった。

重要なのは、481人全員が退避して無事だったという点。横田はいま、「奇跡と言うほかありません」と話す。現実に、車で逃げようとして津波にあうなど、工場地帯であるこの地域では亡くなった人がたくさん出ていた。

横田が一度東京に戻り、再び仙台入りしたのは3月27日。インフラが整わず、車に布団や衣類を積み込んで一人での赴任だった。