まず生保に謝罪し、「自分が責任者として当たります」と明言する。作業現場を回り、トラブルの実態を把握する。一度の出張は2週間単位。生保の本社に近い中之島地区のホテルに、連泊した。中途半端な姿勢では、逃げ腰とみられ、生保業界に「キヤノンはダメだ」とみなされる。それでは、大きなものを失ってしまう。

事前に様式を印刷した用紙は、破れにくくするためなどに表面処理がしてあり、インクの染み込みが悪い。だから、マーカーの液と溶け合う。その点はすぐにつかんだが、解決策がみつからず、2時間しか眠れない日が続く。再び、決断した。「キヤノンでプリンターの開発や品質管理を担当している人に、きてもらおう」。でも、多忙で、すぐにはきてもらえないかもしれない。本社の上司に動いてもらい、援軍がやってきた。

文字が変形する問題は、ほどなく解決した。だが、5000台を全国で同時に動かすと、オフィスで数台使うのとは別の課題がみつかる。すべてをクリアするのに、3年かかった。最後は生損保担当の部長になっていたが、陣頭指揮は続ける。電機メーカーや親会社も呼び込んでやり通したことで、生保に「キヤノンには問題を修復する力がある」と評価され、次に8000台の注文も得た。他の生保からも、引き合いが続く。

「臨難毋苟免」(難に臨んでは苟も免れんとすること毋れ)――困難に遭遇しても、かりそめにも、その困難を免れようなどと考えてはならない、との意味だ。中国の古典『礼記(らいき)』にある言葉で、何か難しいことが起きたときは、その解決を引き受けて立ち向かうべきだ、と説く。直接の部下が抱えた難題ではなくても、引き取って顧客と向き合い続ける坂田流は、この教えと重なる。

1953年4月、東京・高円寺で生まれる。実家は帯留など和服の小物店で、父母と兄2人の5人家族。運動が好きで、小学校では陸上、中学校と高校ではバスケットボールをやった。明治大学商学部では、バスケットには身長が足りないと思い、友人に誘われた軟式庭球を選び、前衛を務めた。

貿易分野のゼミに入り、海外の仕事をしたいと思って、就職では国際化を進めていたキヤノンを受けた。文科系70人、理科系80人が内定すると、文科系の50人余りが国内営業を担うキヤノン販売(現・キヤノンマーケティングジャパン)の配属と決まる。キヤノン販売は設立まもなく、採用はキヤノンが一括してやっていた。「きみも営業」と聞き、驚いた。