力ずくの研究姿勢が認められ、東大助教授に

大学院在学中は親元を離れ、3畳一間のアパートに住む。家庭教師のアルバイトを掛け持ちし、学費や生活費をねん出した。親の支援を受けなかった。

「自分で選んだ道に進んでいるのですから、迷いも焦りもありませんでした。この頃は研究のこと以外、考えませんでした」

1972年、24歳で修士課程を修了する。博士課程2年の25歳から、国立防災科学技術センターに研究員として勤務する。29歳で結婚した。相手の女性は都司さんの学歴を籍を入れるまで知らなかったようだ。

「私も人をみるとき、学歴は一切、無視します。研究者の力を判断するときも、論文や学会などでの活躍だけに興味がわきます」

センターで一緒に研究をする人たちの学歴を気にかけたこともないという。

「ほかの研究者がどのような研究をしていて、どのくらいの深さまで掘り下げているか、といったことは意識していました」

1982年、35歳のとき、博士号(東京大学)を取得する。この頃、東大の地震研究所の梶浦欣二郎教授(故人)から、定年退官で退職するから研究室を引き継いでほしいと話を受ける。

都司さんは、梶浦教授から研究指導は受けたことがない。

「天才・梶浦と呼ばれていたほどの研究者から誘われ、恐れ多いと思い、当初はお断りをしたのです。梶浦先生の研究室の名を汚してはいけないと思いました」

梶浦教授は、都司さんの論文に早くから注目をしていたようだった。

「私は安政東海地震(1854)の津波による被害などを調べて、論文を書いたのです。まず、地震が発生した地域の2500ほどの寺院の住職に手紙を送りました。自寺の過去帳に、この地震で死亡した、寺の檀家の人数が書かれてあったら教えてくださいという内容です。6割ほどの寺から回答をいただきました。その被害記録から、地震の震度や被害について書き上げたのです」

都司さんは、梶浦教授は論文から何かを感じてくれたのではないかと語る。

「汚れまくって、力ずくで書き上げた論文に感心をしてくださったようです。あれはすごい論文だ、と誉めていただきました。あのごつさが、よかったのかもしれません。天才は試みないでしょうから……。

私には、常に劣等感があります。優秀な人の中でいかに生きていくべきかと考え続けると、アイデアは浮かんでくるものなのです」