日本はもう“反省文”を書く必要はない

70周年談話で先の大戦の反省と謝罪を繰り返すかどうか。アメリカに対しても、中国や韓国に対しても、もはや詫びる必要はないと私は思う。その作業は敗戦後に現行憲法を押し付けられたときから、ずっと継続してやってきたからだ。それでも中国や韓国が決して満足せず、「歴史を直視せよ」と過去に向き合うことをどこまでも求め続ける。だが、歴史を直視している殊勝な国など私は見たことがない。

韓国だって征服者として中国の遼寧省や吉林省辺りまで支配していたこともあるし、元の尖兵として(私の父のふるさとである)対馬の人々を虐殺したこともある。4000年の歴史で700回も王朝が変わった自らの歴史を直視しているのか。中国も侵略と征服の歴史で、あるときは匈奴であり、満族であり、日族だっただけのこと。征服王朝がどれくらいひどいことをしたか、一覧表をつくれば、恐らく漢族が漢族を叩いたケースが最悪という結果になるだろう。毛沢東の時代を含めて。国はそれぞれに都合のいい歴史を語りたがる。中国や韓国から見た歴史観に日本が寄り添う必要はない。

70周年談話だから戦後70年を総括するのだろうが、過去を振り返るのは程々でいい。日本が本当にやらなければいけないのは、こういう国になるんだという決意と世界観を示すことだと私は思う。

世界有数の経済大国でありながら、日本がどんな国家を目指し、どのような世界観を持つのか、世界に向けた有効な発信はほとんどなされてこなかった。戦後、後生大事にしてきた憲法には「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることがないように決意する」とか「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」とか「国際紛争の解決手段として武力は持たない」と平和を希求する国である旨は記されている。しかし、それらは「二度と悪さ(戦争)はしません」という反省文のようなもの。日本が世界に対していかなる責任を負っているのか、どんな貢献ができるのか、といったことが書かれたチャプターは憲法にはない。

もちろん、当時の日本人1人当たりのGDP300ドル、どうしようもない敗戦から立ち直るのに必死で、世界のことを考える余裕もなかった。

白い紙の上に自分で憲法を書く力もなく、日本の実情を知らない占領軍がつくった憲法を戴くしかなかったのだ。