降りて、一緒に迷い込む

緊張と気恥ずかしさでモジモジする

場への同化にこだわる理由の一つは、「話し手」と「聞き手」みたいな構図をつくらないためです。僕がいつも「場」に期待していること、求めるものは、一元化された何かを一方的に提供するようなものではなく、場に参加する当事者一人ひとりが、周囲との関わりのなかで変化し、それぞれが持っている多様な何かを拾い合ったり、発揮し合ったりすることです。いわば、「先生」として確立された誰かが、「生徒たち」というような集団に一方向的に何かを伝授・継承しようとする従来の「教育」の場とは、ずいぶん異なるものだと考えています。

これが「話し手」と「聞き手」や、「先生」と「生徒」のような構図になれば、否応なしに両者に上下関係や主従関係のようなものが発生してしまいます。そしてそこでは、「正解の提供」と「答えの探りあい」が始まります。というより、それが求められます。予め用意された「一つの正解」に、誰がいち早くたどり着けるのか、といった答え探しのレース。そもそも、そんな「一つの正解」なんて分からないから、自由な議論や模索の場をつくろうとしているわけです。当事者と一緒に実験する、ということは、僕自身がその模索や試行錯誤の主体として同化する必要があり、一緒に迷路に迷い込まなければ意味がありません。そしてもちろん、出口の場所も知りません。

僕も大学生のころは、大勢の前で話すときなど、最初から元気よくハキハキ挨拶するとか、色々ハウツーを追いかけたりして張り切ってました。壇上や人前に立つ者は、そうあるべきだと思い込んでいたからです。実際、そういう人も多い。インパクトのある話題から始め、注意を引きつける。まずはつかみが大切なのだと。しかしある時、それは実にしょうもない自己満足なのだと気づきました。自分の優位な立場や「役割」を保っていたい、繕っていたいという、自己防衛。自分を守るための戦い。そんなものを、ひらかれた議論や活動の場に持ち込んでどうなるのか……。

僕が変なのでしょうか? 自分が講演を聴いたり、ワークショップに参加したりする立場なら、講師が壇上に颯爽と登場して、「みなさん! こんにちは!」とハイテンションで挨拶されるほうが、ちょっと引いてしまいます。中でも究極的に気持ち悪さを感じるのが、取ってつけたようなアイスブレイク。「さぁ、みなさん! 数人で円になってハイタッチしましょう」などといきなり言われても、なんかたまらなくて、その場から消えたくなります。

だから、降りていくべきなんです。スタートラインは、そこにしかないんだと思います。というよりも、高いところに立っていようとすることが、大きな間違いです。分かっているふりをすることほど、その役割にしがみつくことほど、ダサいことはありません。「引き上げる」なんていうのは、本当にこれからつくるべきものがいかに難しいものなのか、ちゃんと分かってないから言えるのです。自分も一緒になって、這い上がるしかない。