処世術[6]部下とコミュニケーション断絶

官兵衛は、コミュニケーションと信頼関係を大事にした武将です。主君に忠実であったと同様、部下に対しても誠実であることを心がけ、「神の罰より主君の罰おそるべし。主君の罰より臣下の罰おそるべし」との名言を残しています。

そもそも官兵衛は信長や秀吉のスタッフではなく、黒田家当主として多くの家臣を従えており、彼らとの関係はきわめて良好でした。家臣の中には、後に大坂の役で名を馳せた後藤又兵衛や、福島正則の前で大盃を飲み干して秘蔵の槍を貰い受け、黒田節の歌詞にも歌われた母里友信など、「黒田二十四騎」と呼ばれた猛将たちもいます。官兵衛が有岡城に1年にわたって幽閉されたときにも、家臣団は一致団結して乱れることがありませんでした。黒田主従のコミュニケーションは、そんなレベルにまで達していたのです。

もっとも、外部の交渉相手とのコミュニケーションには苦労をしました。たとえば小田原攻めの折。城を囲むこと100日、秀吉は宇喜多秀家、堀秀政などに和睦交渉を行わせますが、北条氏は降伏しません。秀吉はついに引退していた官兵衛を呼んで交渉を託します。

官兵衛がまずやったのは、酒二樽と肴を北条氏に差し入れることでした。すると北条氏からは鉄砲の鉛と火薬が届きます。「まだまだ戦えるぞ」という意思表示で、いわば和睦交渉への拒絶宣言ですが、官兵衛はかまわず、鉛と火薬を「答礼」とみなします。そして「答礼への答礼を行う」と称して肩衣に袴という正装で、刀は持たず、単身、小田原城に乗り込みます。

たとえ相手がコミュニケーションを拒絶していても、こちらから接触すれば、何らかの反応はあるもの。官兵衛であれば、その反応を糸口に、コミュニケーションに持ち込み、信頼関係を構築してゆくでしょう。