黒田官兵衛が頻繁に堺へ赴き、南蛮寺に足繁く出入りした理由は確度の高い情報を迅速に得ることだった。彼のキリシタン信仰は二の次で、一等重要なことはキリシタンの情報ネットワークの活用だったのである。

次に中央政界に人脈を広げることであり、この南蛮寺人脈を通じて、官兵衛は足利義輝にも会った。義輝の幕臣でキリシタンの和田惟政が案内してくれたのだ。田舎大名の家老風情が将軍に会えるわけはないが、そこは南蛮寺人脈が生きた。和田は敬虔なクリスチャンだった。また信長に最初に紹介したのは秀吉ではなくクリスチャンの荒木村重だったようである。

堺、京へたびたびの視察で官兵衛が得たのは次の予測である。

第一に新兵器の鉄砲が量産の時代を迎えており、基礎技術は刀鍛冶の応用で可能であり、この鉄砲隊を近代的に組織化した武将が次の政局を切り開くというハイテク情報は重要だった。

さいわい播磨から備中にかけて刀鍛冶は多く砂鉄の生産に窮することはない。不足するのは硝酸系である。これはポルトガル船に頼らざるをえず、この目的のために信長がなしたキリシタン伴天連の擁護という政策はあからさまに便宜的、機会便乗主義でもある。

第二に当時、京を治めていた三好、松永による裏切り、暗殺といった陰謀政治はいずれ終止符が打たれ、足利義昭を奉じる大名の小競り合い、勢力争奪が展開されるだろう。その次の段階は既存の価値観にとらわれない新興勢力が台頭するだろう。信長に睨まれて、その後、流浪を重ねる足利義昭に黒田官兵衛は興味を示さなくなった。

第三に小寺家としては地政学的には本来毛利をアテにするのが従来的思考の延長戦上からも常識だが、毛利には大きな世界観が欠けている。しかし信長にはあると官兵衞は見た。

こうして小寺官兵衛(当時は小寺氏家老)は信長につくことが長期的に有利と判断したのである。

官兵衛の3大ネットワーク
薬売り――全国に散った黒田家の行商が政治情報と経済情報をもたらす。
南蛮寺――クリスチャン人脈を通じて、将軍・足利義輝、織田信長に面会を果たす。
堺・京――日本中の情報が集まる街に足繁く通い、近未来を予測。