戦国時代に天下人となった織田信長は、ほかの武将とどこが違っていたのか。ビジネス戦略コンサルタントの鈴木博毅さんは「信長は領地拡大に合わせて根拠地を次々と移していった。これはビジネス分野でいう事業ドメインの移行戦略に似ている」という――。

※本稿は、鈴木博毅『戦略は歴史から学べ』(日経ビジネス人文庫)の一部を再編集したものです。

前評判を覆し、勢力を拡大していった信長

源頼朝の鎌倉幕府は、義父の北条時政が権力を狙い、3代目の源実朝以後は北条氏が実権を掌握。1274年、1281年の元寇は北条時宗がトップとして対処。1333年、後醍醐天皇と足利尊氏、新田義貞らにより攻められ鎌倉幕府は滅亡します。

織田信長像〈狩野元秀筆〉
織田信長像〈狩野元秀筆〉(図版=東京大学史料編纂所/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

1338年に足利尊氏が征夷大将軍となり、室町幕府が始まりますが、13代目の足利義輝の時代に将軍は有力者の傀儡かいらいとなっており、義輝は暗殺され、弟の義昭は流浪。義昭は各地の有力武将に手紙で自らを将軍として上洛(京都入り)してほしいと依頼します。

この依頼を活用して義昭と上洛したのが戦国の風雲児、織田信長です。

尾張(愛知県)に生まれた信長は、1551年(諸説あり)に父が死去し、18歳で家督を相続。世間では「大うつけ」と評判で、これで織田家も終わりと思う家臣が多いなか、1552年の赤塚の戦い、萱津の戦いなどで見事な采配指揮を見せ、その後尾張の統一を進めます。

1560年には桶狭間の戦いで、強大な勢力を誇った今川義元に勝利。そのとき、信長は27歳。2年後には三河の徳川家康と同盟を結び、現在の岐阜県、三重県にまで勢力を拡大。1568年に足利義昭と京都入りし、義昭は15代の室町幕府将軍となります。

信長を苦しめた3度の大包囲網

新興勢力として将軍を囲い込んだ信長は、京都で周辺勢力と激しく衝突していきます。

①第一次包囲網(1570年)
越前の朝倉氏、大坂の本願寺、四国・紀伊半島勢力

②第二次包囲網(1571~73年)
武田信玄、朝倉、浅井、三好、足利義昭など

③第三次包囲網(1576~82年)
武田氏、毛利、上杉謙信、本願寺、紀伊半島勢力