信長は室町将軍(義昭)の権威を使って大名たちに京都に来るように命じ、それを拒否した朝倉などを討伐します。しかし大坂の本願寺の反抗などで苦戦を強いられます。

第二次、第三次では武田信玄、上杉謙信など東国のいくさ上手が京都を目指すも、両者は病死。第三次包囲網では毛利、武田、上杉などを信長軍が押し返すも、1582年に本能寺で明智光秀の謀反により信長が自害して、第三次包囲網は消滅します。

根拠地を西へ移動させ続け、家臣団は戦闘に集中

信長は3度の包囲網の打破に生涯を賭けましたが、順調には勝ち進めませんでした。

弟の信治が琵琶湖近くの戦闘で戦死、伊勢の一向一揆の攻撃で別の弟、信興のぶおきも戦死。第二次包囲網では、過去安定した関係だった武田信玄が、突如裏切り京都を目指し、三方ヶ原で徳川家康を破ります(直後に信玄は病死)。

極めて苦しい戦いを続けた信長は、いくつかの対抗策を編み出していきます。

①自身の根拠地を那古野城→清洲城→小牧山城→岐阜城→安土城と変える
②同時並行で集中戦闘できる「方面軍」を組織して各地の戦闘を担当させる
③進撃速度の速さ、撤退の速さ(岐阜城から京都まで一日で一騎駆けなど)
④兵農分離を目指し戦闘集団をつくり、根拠地移動で家臣の土着性を失わせる

当時の武将は、不変の根拠地を持っており、戦闘が終わると必ずその地に戻りました。そのため京都から遠い武田氏、上杉氏などは勢力があっても上洛が難しかったのです。

信長は領地拡大に合わせて根拠地を西に移動させ続けて、家臣団も城下町に住んだので、自身の根拠地がそのまま西へ移動するような形となりました。

「方面軍」は、北陸・関東・大坂・畿内・四国・中国・東海道などに分かれ、中国方面は羽柴秀吉が、東海道は同盟していた徳川家康が担当していました。これはビジネスで多角化を成功させる事業部制に大変よく似ています。

当時はいくさのない時期、武士も農業に関わりましたが、信長は直臣の兵農分離を進め、根拠地を移動させたことで家臣団は領地にこだわらず戦闘に集中できました。

【図表1】織田信長の勢力範囲と方面軍の配置
事業部制に似ている織田信長の「方面軍」(出所=『戦略は歴史から学べ』)