源頼朝はなぜ平家一族を打倒し、鎌倉幕府を開くことができたのか。ビジネス戦略コンサルタントの鈴木博毅さんは「強力なライバルがいる場所から戦いを始めると、永久に1位になれない。初期の頼朝が、10倍の平家勢力が支配する伊豆で戦うことに固執したら滅亡していただろう」という――。
※本稿は、鈴木博毅『戦略は歴史から学べ』(日経ビジネス人文庫)の一部を再編集したものです。
武士として初の「殿上人」を輩出した平家一族
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰のことはりをあらはす。奢れる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者もつひには滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ」(河合敦『平清盛と平家四代』より)
多くの日本人が知る、平家物語の冒頭の一節です。世間で勢いがあり盛んな者も、必ず衰える無常のことわりを伝えています。現代から900年前、わが世の春を謳歌していた平家一族は、一度は都から追いやった源氏に敗れて滅亡します。
平清盛の父、忠盛は白河上皇に近づき武士としてはじめての殿上人となった人物です。
殿上人とは、天皇の日常生活の場「清涼殿」に上がることを許された者を指します。
源氏はクーデターを起こし、朝敵となった
もともと平家と源氏は敵対していたわけではなく、白河上皇が院政を敷いたときに、自らの権力の土台として武士を利用したことから因縁が始まります。頼朝の曽祖父である義親は、白河上皇の命令を受けた正盛(清盛の祖父)に討たれているからです。
1156年の保元の乱でも、配下の平家と源氏は激しく衝突することになります。
3年後の平治の乱で、源義朝と藤原信頼は二条天皇を幽閉して院政を敷くクーデターを起こしますが、天皇は脱出して清盛のいる六波羅に辿り着きます。朝敵となった義朝と信頼は討たれ、父と従軍したわずか13歳の頼朝も平家に捕らわれ死罪となるところ、幼少であったことで伊豆へ流刑となりました。