弟義経の奇襲作戦が成功し、平家は滅亡

伊豆で頼朝は20年近くの歳月を過ごしますが、地方豪族の北条時政の娘(政子)と恋におち、やがて夫婦となることで、北条氏の後ろ盾を得て台頭します。

1180年に、平家の栄華の陰で不遇だった以仁王もちひとおうが、平家討伐の指令を全国の源氏に伝えました。同年に頼朝、木曽義仲が挙兵。1181年には、平家の繁栄を支えた清盛が病死します。

しかし、京に入った義仲が暴政をふるったため、頼朝は弟である源義経に義仲を討たせます。義経は一ノ谷の戦いで敵陣の背後の谷から攻める「鵯越ひよどりごえ」を成功させて平家は海に逃れ、香川県の屋島、下関の壇ノ浦の戦いでも義経は連勝して平家を滅亡させます。

義経は奇襲の達人であり、屋島の戦いでも暴風雨を衝いて上陸し、各所に火を放って大軍だと思わせた上で、敵陣の後ろから突入して平家を大混乱に陥れました。

頼朝は自分が1番になれる選択肢を取った

頼朝の挙兵は、実は敗北から始まります。伊豆で平家配下の山木兼隆を奇襲して殺しますが、事件を知った平家は関東の武士3000人を集めて頼朝を包囲。300人の頼朝側は、あっという間に敗北、頼朝と敗残兵は房総半島まで逃れます。

房総半島には、味方だった三浦一族の縁者があり、関東平野には亡父の義朝とつながる源氏ゆかりの者も多く、千葉、次は関東平野へと段階的に支配力を拡大。先の敗戦から1カ月ほどで、関東の豪族を束ねて数万の兵力となり、鎌倉入りを果たします。

のちに、富士川の戦い(1180年)で平維盛これもりを破った頼朝側は、2択を迫られます。

・敗走する平家の軍を追撃して京都に向かうか
・関東に再び戻り、帰順していない勢力を討伐するか

頼朝は京都に進まず地固めをします。佐竹氏など、頼朝に帰順せず未だ平家の影響下にあった関東の豪族を滅ぼして、地域の絶対的地位を確立します。頼朝は、小さくとも自らが1番となれるエリアに向かい、段階的に勢力範囲を拡大していったのです。

ナンバーワンのシンボルに向かって歩く男性
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