平家が手を焼いた朝廷や寺院勢力の懐柔に成功

一方の京都では、貴族の公家や朝廷(天皇・上皇)、僧兵を持つ寺院勢力など、さまざまな勢力が拮抗する中で、平家は権力の均衡を維持できない状態になっていました。

1180年には6月に福原遷都が失敗。年末に興福寺の反乱を鎮圧した平重衡しげひらが火を放って東大寺などを焼き払い、清盛が注意深く友好関係を築いてきた寺院勢力を激怒させ、支配力を低下させます。

翌年には清盛が病死(享年64)。優れた判断力で平家を繁栄させた清盛の死後、残された平家一族は権力維持の方法がわかりませんでした。

清盛が死去した1181年は飢饉ききんでしたが、頼朝は後白河法皇と比叡山に密書を送り、比叡山には関東からの年貢(食糧)を約束し、後白河法皇には源氏は謀反の心はなく、法皇のため平家を排除し、再び朝廷の傘下に入りたいのだと伝えます。

頼朝は巧みに、京都の3勢力が一致団結して源氏に当たることを防いだのです。

老獪ろうかいな後白河法皇は、のちに平家なきあと源氏の2人(頼朝と義経)を争わせ、自らの権勢維持を狙いますが、頼朝は毅然きぜんとして義経を討伐して分裂の隙を与えませんでした。

霧島酒造が首都圏や関西を後回しにしたワケ

麦焼酎「いいちこ」で有名な三和酒類を抜いて、2012年に焼酎業界で売上高第1位となった霧島酒造は、市場として博多を攻略したあと、同規模の広島と仙台をターゲットにし、首都圏や関西などの大消費地を後回しにして全国展開しました。

大都市は強力なライバルが多い上に、販売管理費がかかるというリスクがあったからです(1998年の売上高は約82億円、2014年には約566億円と7倍へ拡大)。

「最初にたたくべき攻撃目標というのは、俗に言う『足下の敵』である。射程距離圏内にくっついている足下の敵というのがまず攻撃目標としては優先する。つまり、2位は3位をたたかなければだめだということになろう」(田岡信夫『ランチェスター販売戦略1 戦略入門』より)