拘置所を出た日はホテルに泊まり、その後、東京で2カ月、浜松で1カ月入院生活を余儀なくされていました。拘置所に長くいたため拘禁症と軽い糖尿病、そして認知症の疑いがあったためです。でも幸いなことに、思ったよりひどくはなくホッとしています。
入院中の巖は、ほとんど喋ることなく、広い病室の中を行ったり来たり歩き回っていました。きっと拘置所にいるときからそうしていたのでしょう。おかしな言動も残っていました。私のことがわかるときもあれば、「姉なんかいない」と吐き捨てたり、
「もう袴田巖はいない。自分はハワイの大王だ」
などと言うこともありました。病院の食事のメニューには自分の名前の横に、「天下の神」って書いたり。そうかと思うと、私たちの話すことを素直に聞くこともある。感情にムラがあるような感じでした。
浜松で入院中だった6月29日、事件のあった静岡県の旧清水市で支援集会が開かれました。外出許可を取り、巖も参加しました。
「清水に行けば、自由になれる。清水には自由になれるプログラムがある」
清水を再訪することが一区切りになると感じていたのでしょうか、巖はそう言っていました。かつて働いていた建物や、近くにあった橋などを覚えてもいました。
外泊許可を取ってあったので、巖はこの日は私の自宅に泊まりました。4階の部屋に入るなり、窓からの風に、「ああ、ここはいい……」と呟き、自由な身を実感しているようでした。巖は翌日、よほど居心地がよかったのでしょうか、「病院へは戻らず、ここにいる」と言い張りました。主治医の先生とも相談して退院させてもらい、以来、私の家で日々を過ごしています。ボクシングのDVDを見ることもあります。支援者からグローブを渡されると、「いやあ、もうそんなに若くないから」と、ニヤリとしていました。