新しい世界秩序をつくる一角を担うリーダーになれる

【塩田】これからはどんな型のリーダーシップが求められていると思いますか。

【浅田】既成概念にとらわれないことが重要でしょうね。既成概念にとらわれると、落とし穴にはまり、新たな展開ができない。とはいえ、鳩山由紀夫元首相のようにファンタジーの世界に行ってしまうと、プラグマチックな実践改革はできません。あくまで現実を見るリアリストの目とプラグマチックな行動力を兼ね備えた人がリーダーになって、集団を形成し、日本を引っ張っていってほしいですね。

【塩田】リーダーとして、安倍首相と橋下さんの違いは。

【浅田】一番の違いは、橋下代表はまだ40歳を少し過ぎた年代で、日本が豊かな時代を迎えた後に生まれたという点です。いままでの政治家は、アメリカには借りがあるとか、敗戦国の負い目を背負って政治をやってきましたが、それがない。世界の人々と基本的な価値観を共有できる初めての世代で、新しい世界秩序も、自分たちが中心になって話し合ったら、同じ価値観を持っている人たちにもっと呼びかけることができる。そういう意味で、戦後初の世代による政党が初めて形成されたといっていいと思う。新しい世界秩序をつくる一角を担っていける人材と僕は思っています。

【塩田】浅田さんはなぜ政治の世界に。

【浅田】親父にだまされたんですよ(笑)。OECD(経済協力開発機構)の職員としてずっとパリで働くつもりでいたのに、「癌になったから、日本に帰ってこい」と言われた。OECDの仕事が終わったら、どこかの大学の教授か、通訳のボランティアでもしようと思っていた。親父に「議員なんて、ボランティアみたいなもの」と言われ、帰ってきたのがきっかけです。

【塩田】なぜOECDに。

【浅田】NHK時代にアメリカのスタンフォード大学に留学させてもらった。NHKに戻った後、研究成果をどう発揮できるのか、悩みがありました。そのとき、外務省の友だちからOECDの代表部に専門調査員で2~3年、行ってくれないかと打診があった。

最初は外務省の職員としてOECD日本政府代表部の専門調査員となり、そこで働いている間にOECDの事務局からこないかと言われた。OECDの職員は政策提案をやる。当時は東欧の人たちが自由主義経済圏に入りたいという意向を持ち始めていた。どういうネットワークをつくったらいいかということで、通信の開放と、プラス情報・通信の仕事をさせてもらった。面白かったから日本に帰ってくる気はなかったんですが(笑)。

【塩田】政治家としてこれからはどんな役割を。

【浅田】後は後進を育てることだと思っています。僕は家老的な役割ですね(笑)。

【塩田】「大阪都」ができたときに、「都知事」に挑戦するという気持ちは。

【浅田】それはもっと若くてふさわしい人がいると思います。

【塩田】ありがとうございました。

浅田 均(あさだ・ひとし) 日本維新の会政策調査会長・大阪府議
1950(昭和25)年12月、大阪市城東区生まれ(現在、63歳)。大阪府立大手前高校、京都大学文学部哲学科卒。日本放送協会(NHK)に入り、アメリカに留学してスタンフォード大学大学院修士課程修了。その後、経済協力開発機構(OECD)日本政府代表部に転じ、パリに在住。英語、フランス語を使いこなす。父親の浅田貢氏(当時、大阪府議)の要請で帰国し、1999(平成11)年に大阪府議に当選する。現在4期目。3期目の2008年2月の大阪府知事選挙に橋下徹氏(現「日本維新の会」代表、現大阪市長。前大阪府知事)が出馬したとき、自民党府議団のメンバーとして支援したのが橋下氏との出会い。11年5月から14年5月まで大阪府議会議長を務めた。維新の会政調会長として橋下代表の「知恵袋」の役割を担い、12年8月に「日本維新の会」の党綱領の基となる「維新八策」を起草するなど、政策立案の柱として「橋下体制」を支えてきた。維新の会が推進する大阪都構想を実現するため、大阪市を廃止し、特別区の設置を協議する「大阪府・大阪市特別区設置協議会」(法定協議会)が13年2月に設置されたが、発足時から会長を務めている。一方、野党再編を視野に、「結いの党」や「みんなの党」などとの政策協議の中核として活躍中。著書は、大阪維新の会(政調会)著・浅田均編『大阪維新――チーム橋下の戦略と作戦」(PHP研究所刊)。
(熊谷武二=撮影)
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