なぜ橋下・石原代表は袂を分かったのか
【塩田潮】2012年9月、大阪維新の会を母体に日本維新の会が結成され、11月に石原慎太郎氏(元東京都知事。現衆議院議員)らの太陽の党が合流して、橋下徹大阪市長と石原氏が共同代表になりましたが、結いの党の合流問題をめぐって、橋下氏と石原氏の意見の食い違いが表面化し、今年の5月28日、袂を分かって分党となりました。日本維新の会の結党のときから、いずれ橋下氏と石原氏が対立し、分裂するのでは、と見ていた人は少なくなかったと思います。そもそも12年になぜ両者は手を組み、一つの党に結集したのですか。
【浅田均(大阪維新の会政調会長)】僕らの原点は統治機構の改革です。最初は石原さんが都知事だった頃、一緒に大都市の首長連合を組もうという考え方だった。これからは中央集権体制で国が国民を引っ張っていく時代ではない。地方が国を引っ張っていく時代だ。だから、元気な地方をつくる必要がある。その点で、石原さん、橋下さん、愛知県知事の大村秀章さん、名古屋市長の河村たかしさんも同じ考えで、結びついていたわけです。石原さんとは、大都市がこれからの日本を支えていく、地方を元気にするための地方制度をつくっていく必要があるという点では完全に考え方が一致していました。
ところが、石原さんは国政に転じると、僕らが主張する統治機構改革や地方を元気にすることよりも、自主憲法制定とか原子力推進というところに先祖返りしてしまった。
【塩田】ですが、石原氏の個性や過去の言動を見れば、そうなるのは初めからある程度、予想がついたのではないかと思いますが。
【浅田】憲法問題も原子力などのエネルギー問題も、太陽の党と合流するとき、石原さんも納得して合意文書をつくったんです。僕らは合意文書に則って進めたのに、石原さんは「いや」と言って自分の原点に戻ってしまった。
【塩田】昔から自分の考えは譲らずに主張し続ける政治家です。その点も承知の上で合流を決めたのでは。そうでなければ、中央政界での石原さんの存在について、理解が足りなかったと言われても仕方ありませんね。
【浅田】その点は橋下代表も全然、承知していなかった。そう言われれば、そのとおりです。
【塩田】分党を決めた後、6月10日に結いの党の柿沢未途政調会長と会談して、「維新・結い」の合流に向けて7項目の基本政策で合意した、と報じられました。
【浅田】こちらは国会議員団の政調会長の片山虎之助さん(元総務相)と僕、向こうは小野次郎幹事長と柿沢さんで4者の政策協議を行い、7項目で合意しました。
【塩田】結いの党とは4月25日に参議院で統一会派を組みましたが、合流・新党結成はいつ頃までに。
【浅田】7項目の基本政策で合意しましたが、政策の細部をまとめた61項目について、実はこちらの国会議員団の中で了解が取れていません。それを7項目の共通政策にどういうふうに落とし込んでいくかという作業が必要です。来年4月の統一地方選挙のための運動を展開していく前段としての政策協議ですから、政策的な取りまとめは、遅くとも今年の7月頃までにできていないと、選挙の準備ができません。夏までには合流を前提とした政策協議を終えることにしたいと思っています。