才能について語ることはタブー
――為末さんもアメリカで暮らしておられたから感じられたかもしれませんが、アメリカって親が子どもを恥ずかしげもなく褒めますよね。「うちの子はこんなに勉強できるんだ」とか、「こんなにスポーツが得意で、こんなに賞を獲ったんだ」と赤の他人にも堂々と自慢する。何かをがんばっているから偉いというんじゃなくて、「この子にはこういう能力があるんです」と具体的に褒める。
【為末】人の評価には、「あなたの評価」と「あなたの能力の評価」があると思うんです。これが比較的一致する社会だと、敗北というものがすごく重くなるんじゃないかと思うんですよね。アメリカ人は何かやってできなかったとしても、「自分がダメだったんだ」と考えずに「自分には合わなかったんだ」と考える人が多いように思います。得意でないものがあったとしても、だから自分はダメなんだとは考えない。独善的でもあるんですが、よく言えば自己肯定感が強い。たとえば野球をやってものにならなかったら「野球の才能がなかった」とは考えずに、「野球が自分には合わなかった」と考える。何に対しても「試してみてダメだったらやめる」という姿勢ですね。それでまた次にトライする。
――ちょっと無責任な気もしますが、覚悟を決めて何かをやるというよりも、とりあえずやってみる、ということですね。ダメでも再チャレンジすればいいと。
【為末】やり直しがきく空気がチャレンジの軽さになるんですね。やり直しがききにくかったり、方向転換がしにくい社会では、チャレンジした以上、成功するまでやり続けるか、そのまま滅びるかの二者択一になってしまう。だから「この道で本当にいいんだろうか」と毎回悩むことになる。毎回結婚するみたいな感じの怖さっていうんですかね(笑)。「つき合ってみて、合わなかったら別れようか」という選択肢がない。でもあまりに簡単にやり直しがきく社会だと、倫理観が薄まりそうな気はしますね。
――節操はなくなりますよね。自己破産を何回もしちゃうとか。日本はチャレンジが重い社会なので、「才能」という言葉に過剰反応してしまうんでしょうか。才能って、ちょっと絵がうまいとか、ちょっと歌がうまいとか、その程度のものでもあると思うんですが。
【為末】剣玉が上手にできるとかね。僕はいろんな教育の場で話をさせてもらうことがありますが、正面から才能の話をすることにタブー感があるように思います。どの国においても変えられないもので人を区別するっていうことに関しては、相当センシティブな面はあると思うのですが、「人それぞれ違うんだから」というのもまた真実だと思うんですよね。でもやっぱり日本だとエリート教育ひとつとっても、議論しにくい空気がありますね。
――それも誰が言うかっていうことが問題になってきますよね。ただ、「人それぞれ違うけど、与えられている機会は平等」というのも建前ですよね。結局、才能か機会のどちらかは平等ということにしないと希望がないということでしょうか。
【為末】才能をめぐる問いは、感触としては、キリスト教の人に「神様がいるかいないか」と聞くようなものなのかもしれませんね。なんとなく触れちゃいけない部分というか。
――そうですね。
【為末】宗教には現世の肩書きや地位をチャラにしてくれるところがあります。そんなものではなく、信仰の強さこそが大事なんだ、という考え方は人を落ち着かせるものなんじゃないかと思うんですよね。才能とか環境とかではなく、とにかく努力することが尊いんだ、というのもそれと似ていますよね。宗教であれ何であれ、いったん現世の不平等をチャラみせてくれるものを欲するところが人間にはあるのかもしれません。