可能性に賭けるか、確率論で考えるか
【為末】もちろん、夢が叶うと信じる時代があってもいいと思うんですけど、ある時点で、「ちがうかもしれないよ」と誰かが言ってあげたり、自分で気づくことも必要なんじゃないかと思うんですよね。
仮に同じ環境で育って、同じくらいの能力をもったAさんとBさんという人がいたとします。2人とも野球が好きだったけれども、あまり上手くはならなかった。Aさんのほうは、どうも自分はあんまり野球は向いてないと感じて、自分の能力が活かせそうな、文章を書く仕事についた。Bさんは野球にこだわってそれに人生を賭けた。つまり、Bさんが得意でないことに費やした同じ時間を、Aさんは自分が得意なことに費やしたということです。2人の人生はずいぶん違うものになったと思います。Bさんが、自分は野球がうまくならなくてもただ楽しいから続けていたいとずっと思えるならそれはそれでいいと思いますが。
――もし野球を諦めたAさんが物書きとして着々と成功していったなら、Bさんが自分が野球に費やしてきた時間を損失と感じないでいるのは難しいでしょうね。
【為末】同じ場所でやり続けることが目的化すると「努力することがすべて」になっていきがちです。「努力は大事だ」と言っているときはまだいいんですが、「すべて」となると、戦略も選択もなくなって、勝つことからは遠ざかっていく。それも込みで努力するのはいいと思うんですけど、これだけ努力したのになんで結果が出ないんだとイライラし始めると厄介です。「努力の仕方が間違っている」ということなんだけど、それさえも受け入れられない。
――盲信に近くなってくると。
【為末】ええ。身長170cm台の人がNBAを目指して努力して、なかなか結果がでなくても、「身長170cm台でNBA選手になった人もいるから僕も諦めない」と、頑張り続けたら、いつか夢が叶うと思いますか? 同じ身長でNBAの選手になった人がいたとしても、それはいったい全体の何%なのかという話なんですよね。もちろん可能性はあると思うんです。陸上でも、100mという競技は圧倒的にアフリカ系の選手が強いわけですが、今後は100mで通用するアジア人だって出てくるかもしれない。可能性はゼロじゃない。でも本当にそこで勝ちたいのなら、勝てる確率がより高いところで勝負をしますよね。