私が51歳で出家を決心したとき、マスコミはいろいろなことを書き立てました。男に振られたのではないか、もう小説が書けなくなったのではないか、娘の結婚式に呼ばれなかったので拗ねたのではないかなどなど。でも、どれも当たってはいませんでした。

ちゃんと男はいましたし、連載の予約は再来年まで一杯。娘の結婚相手は、陰で私が世話をした人でした。ですから、そういった理由ではなかったのです。

私は大学を卒業するまで、ずっと優等生でした。結婚しても模範的な奥さんだったので、不良に対して強い憧れがありました。子供の頃から、不良が羨ましくて羨ましくて仕方がなかった。

家を捨て、子供も捨てて、大変に悪いことをいろいろとして、周囲の人にも迷惑をかけながら小説を書き続けました。お陰様で小説は読者がついてくれ、嫌な言葉ですが「流行作家」になりました。売れる小説を書くコツを会得していたので、いくらでも小説は書けた。あのまま流行作家としての人生を続けていくことは、私にとって容易なことでした。

ところが、「これじゃない」と思ってしまったのです。私が憧れてきた、理想としてきた文学は、こんなものではないと思ってしまったのです。

持って生まれた才能だけでは、もはや文学の理想を究めることはできません。バックボーンというのでしょうか、確固たる信念と哲学がなければ、本当に書きたいものは書けない。何か、人間よりも大きな存在に助けてもらいたいという気持ちが、非常に強くなったのです。

師僧の今東光先生(作家・故人)がご病気だったこともあり、先生が住職を務める中尊寺での得度式では、上野・寛永寺の杉谷義周大僧正が戒師を引き受けてくださいました。天台宗では頭を剃っている間、声明を上げるのですが、壁越しに男性のゆるやかな声明を聞きながら頭を剃られていると、心が鎮まっていくのを感じました。これは毀形唄(きぎょうばい)という声明であることを、あとから学びました。