事実のように書かれている「推測・憶測・意見」
事実①:サトシは運動が嫌いだ。
事実②:昨日、サトシは運動会を休んだ。
この2つの事実があったときに、サトシの友人のシンイチが「サトシは運動したくないから、昨日の運動会を休んだ」と言ったとしましょう。
このシンイチの発言は正しいのでしょうか? 答えはノーです。
たしかに、事実①と②を見たときに、「サトシは運動したくないから【原因】、昨日の運動会を休んだ【結果】」という可能性もゼロではありません。
しかし、それはあくまでも推測・想像の話であって、事実と言い切れるものではありません。もしかしたら、サトシは運動会当日にたまたま風邪をひいたり、身内に不幸があったりしたのかもしれません。
マスコミやSNS、企業のPRなど、多くのメディアが、あらゆる事実や資料を示して、自説や持論の説得力を高めようとしていますが、事実から推論できるからと言って、それもまた事実であるとは限りません。
一見、事実のように書かれていても、単に推測や臆測、一意見にすぎないことも多いのです。
このような言葉のマジックを見破ることも、読解力が果たす大きな役割です。
読み解き損ねた理解から導き出される「本質」は、もしかしたら、ハリボテのような見かけ倒しの本質、陽炎のような実態のない本質かもしれません。
意見や主張をする人は「もっともらしく」語る
この文章を読んで納得した人は、少し危険です。
失業率と普通離婚率の低さを根拠に「豊かな国」と言い切ることはできません。そもそも、「豊かさ」の定義とはなんでしょう?
定義を示さず、「日本は豊かな国である」と書いても納得できません。
さらに言えば、普通離婚率が低いことは「いいこと」なのでしょうか?
もし、貧困のために離婚できずに苦しんでいる人がたくさんいたとしたら?
上記の文章は、事実を積み上げて立派にまとめ上げたように見えますが、その実は「綻びだらけの文章」とも言えるのです。
意見や主張をする人は、(当たり前ですが)そのことについてもっともらしく語ります。だからこそ、何が事実で何が事実でないかを見極める目を持つ必要があるのです。
個人の臆測や根拠の薄い意見を漫然と受け取ることは、誤った情報や歪んだ情報を自分に取り入れてしまうことにほかなりません(脳内ネットワークにおかしな「理解の箱」が格納されることになります)。
一つひとつの情報を精査するスキルも、読解力の一部と心得ておきましょう。