知らぬ間に実験道具とされていた伊達市民
(前編からつづく)
2011年5月、わかなさん一家は山形県へ自主避難した。伊達市を離れたことは、結果的によかったことだと私は思う。伊達市が辿る「その後」を見れば、伊達市に残ることは、より苦しい現実を味わうことになったと思われるからだ。
ここで、伊達市の「その後」を、かいつまんで説明したい。
2011年7月、伊達市は他の自治体に先駆け、市内全ての小中学生と幼稚園児に個人線量計(ガラスバッジ)を配った。そして翌年には全市民に、ガラスバッジを装着させた。わかなさんも伊達市にいたなら、ガラスバッジを付ける日常を強いられたはずだ。
一体、何のために? 後に明らかになったのは、全市民のガラスバッジデータをもとに、「被曝の心配はそんなにはない」「除染もそれほど必要ではない」という趣旨の学術論文が、東大教授の早野龍五氏、福島県立医科大学助手の宮崎真氏(肩書は当時)により作成されたということだ。伊達市は、全市民の医学的データを市民の同意なしに学者に渡すという違法行為まで行い、こうして市民は知らぬ間に実験道具とされたのだ。
論文はその後、捏造疑惑が明るみに出て、国際学術雑誌の掲載が撤回された。市民のデータがまったく市民の知らぬ間に、論文作成の材料にされていたことも、問題視された。宮崎氏は、この論文で一度博士号を取得したが、この問題が報道され、伊達市議会での追及の声があがった後に、博士号は剝奪された。しかし、論文の共同執筆者の早野龍五氏には、お咎めらしいお咎めは何もない。その後、東大を退官し、順調に同大学の名誉教授になっている。
除染に関しては、全国で伊達市だけのABCエリア方式(汚染の度合いで、市内を3つにエリア分けする方式)を採用、わかなさんの居住地を含む、市内8割を占めるCエリアは国の除染基準に該当していながら、遂に除染されることなく終わっている。
伊達市民が被った「理不尽」を、自主避難したわかなさんは味わうことはなかったわけだが、わかなさんは避難先での高校3年間を「暗黒」と表現する。
実際に、自ら死を選ぶまでに追い詰められることとなる。