限界
手術から7日。妻を担当する理学療法士から、
「奥様の体、右側の反応がないですね」
と声をかけられ、背筋が凍りつく。そのことには設楽さんも気づいていた。
一方、息子が消息を絶ってから10日。設楽さんは何百回も電話をかけ、メッセージを残し、メールやLINEも送った。息子はスマホの充電はしてあるようだったが、警察は息子の居場所を特定することはできずにいた。
「妻が倒れた時、第一発見者となった息子は、崩壊した母親を目の当たりにしながら、救急車を呼び、全て一人で対応していました。母親好きで、気は優しく、環境の変化を嫌う性格でもありました。小3の時には転校した学校に馴染めず、半年ほど通えなくなったこともありました。そんな息子が、目の前で起こる母親の惨劇を目にし、どんな心境だったのか。ただ一つ言えることは、妻のことをきっかけに、息子の何かが確実に壊れたということだけでした」
しかしその頃、設楽さん自身も、精神的にも身体的にも限界を迎えようとしていた。
「有名な精神科に診てもらいましたが、『あなたは病まないから大丈夫です』と診断され、医者もいい加減なもんだと気が立ったりもしていました」
ろくに眠れない。食べられない状況が続く。限界を感じていた設楽さんは、最後のつもりで息子にメールを送った。
「もうこれ以上は連絡しないから、安心していい。ただお前がいないと知ったら、ママは何て思うだろうか。ママの看病すら、まともにできない状況をお前は望むのか? 頼むから普通に看病させてくれないか。もう帰ってこなくてもいい。ただ安否ぐらい教えてほしいかな。死んでたら無理だろうが」
するとしばらく経ったあと、返信があった。
「(父親である設楽さんが)ママの看病ができないなら、帰るよ」
戻ってきた息子に、心配していた娘(20歳)は思わず吐き捨てるように言った。
「死ぬなら1人で死ねよ!」
設楽家が崩壊しかけていた。
激減する収入
設楽さんは、仕事は有給休暇を使ったが、その日数には限りがある。妻の障害が固定されるまでは、医療費がどのくらいかかるかも見通しが立たない。
「私が37歳の頃に一戸建てを建て、ローンもありました。私の営業手当や日当、インセンティブなどと、妻の夜勤手当や残業手当が入ってこなくなれば、収入が激減します。還付されるとはいえ、一時的に入院関連の持ち出しの出費が増え、また時期的に学費や確定申告、納税の時期でもあり、支出は一気に跳ね上がりました」
設楽家の家計は妻が握っていた。そしてメインバンクはネットバンクだった。
「私は家に一体いくらあるのかすらわかりませんでした。ネットバンクは通帳もないので、預金口座がどこにあるか確認できず、妻のiPhoneを開けられない限り探すこともできません。缶コーヒーすら買うのをためらう状況でした」
手持ちの現金が底を尽きる前に何とかせねばと、設楽さんは妻のiPhoneを開こうと試みる。iPhoneはパスコードを10回間違えると完全にデータが消えてしまう。手に汗握りながら何度も入力しては阻まれ、6回目失敗し、7回目も失敗、ついに8回目で心あたりのある数字を入力すると奇跡的に開くことに成功した。
「2018年1月〜4月までで、(収支は)170万円の赤字でした。その後の見通しが立たず、預金残高も少ないことから、その年の10月には債務超過に陥る計算でした。実際、ソーシャルワーカーに自己破産や生活保護の相談をしています。結果的にはその後は保険や還付があって持ち直し、たまたましていた株式投資がうまくいき、生計を立て直すことができました」
手術から2週間後、想定外のことが起こる。妻が目を覚ましたのだ。設楽さんは待っていましたとばかりに話しかける。しかし妻は、ただひたすら赤子のように涙を流し続けるだけ。
「当時の妻は、私のことはおろか、子どもたちのことさえ理解することができませんでした。変わり果てた妻の姿を目にするのは、つらく耐えがたいものでした。当時の私は感情が溢れ出ることを我慢できずに、場所を問わずよく泣いていました」