一筋の光
2018年1月下旬。妻はICUから急性期病棟に移った。
「左脳皮質下出血による右側上下肢の完全麻痺、及び失語症状を伴う高次脳機能障害あり。残念ながら重い障害のため、奥様が元のお体に戻るのは難しいと思います」
医師は妻の脳のCT画像を示しながら説明した。
「右半身が麻痺により、自発的に全く動かすことができない。言葉はほとんど話せない。あらゆる物事を理解することが困難(記憶や認知する力がかなり弱い)ということでした」
その後、本格的なリハビリが始まった。
「一般に回復期と言われる期間は、入院期間中に医療保険で、治療(失われた機能の回復を目指す)を目的としたリハビリを6カ月間程度受けることができます。つまりこの期間は、リハビリそのものが治療であり、その後は医療保険から介護保険に切り替わることで治療ではなく、介護(身体機能の維持)がスタートすることになります」
やる気に火がついた設楽さんは、毎日朝から晩まで妻のリハビリに付き合い、そばで応援した。
「この治療(リハビリ)が終わる前に、介護がスタートする前に、ほんの少しでもいいから、元の妻に近づいてほしい一心でした」
その頃、「アー、アー」という言葉にならない声を発することができるようになっていた妻だったが、周囲からの呼びかけに対しては、反応できているのかどうかよくわからない状態だった。
2月上旬。見回りに来た看護師が、
「ご気分はいかがでしゅか?」
と声をかけた。
「どうやら看護師は噛んだようでした。看護師が去ったあと、すぐさま妻に『いかがでしゅか?』と声をかけたところ、なんと妻が大きな声をあげてゲラゲラと笑い出したのです。私はうれしくて、何度も何度も『いかがでしゅか?』と言い、その度に妻は大笑いしました」
捨てる神あれば拾う神あり
笑ってからというもの、妻は積極的に話そうとするようになった。それまでは「アー、アー」というだけだったが、否定したいときには「ううん」、同意したいときには「しょしょ」と、表現できることが増えていく。
設楽さんがつきっきりで会話し続けたことが功を奏し、妻が何を言っているのか、おおよそはわかるようになった。
もともと頑張り屋だった妻は、リハビリを頑張った。結果、少しなら歩けるようになり、たどたどしいながらも話せるようになった。食事も、流動食から普通食になった。
2018年8月、退院が決まる。しかし、退院後に入所する公共の介護施設には空きがなく、民間の介護施設は頭金や毎月の費用が高額なところばかり。
「当時の私は、働きながら在宅で介護する自信がなく、施設に入れようにも、妻の収入(傷病手当)の終わりも見えており、私の収入だけではやっていけないことがわかっていたため、八方塞がりな状況でした」
そんなとき、公共の施設に偶然空きが出たため、入所できることに。
さらに、妻が倒れたとき、実は単身赴任中だった設楽さんは、会社の社長、部門長、人事に妻のことを相談。その結果、自宅から通える担当先へ配置転換となり、翌年には設楽さんのケースをベースに、私傷病休暇10日、介護休暇10日、介護休業93日×3回の制度が新設された。
「日本に進出したばかり外資系企業で、介護に関する福利厚生は当時会社にはありませんでした。妻をモデルケースとして、新たに会社に制度を作ってもらうことができ、今の会社には感謝しています。最大限の配慮をいただいたと思います」
妻が入院してから半年後、仕事に復帰してからは、朝病院へ行ってから仕事をし、昼にも病院に顔を出してから仕事。夜にも病院に寄り、買い物をしてから帰宅し、夕食を作り、家事をして就寝。退院後は1日も休まず施設に通った。