父親の放蕩で一家離散
関東地方在住の山車依子さん(仮名・60代)は、音楽関係の仕事に就いていた父親と、家事手伝いをしていた母親のもとに生まれ、一人っ子として育った。両親は父親が仕事で訪れた中部地方で出会い、すぐに母親が妊娠したため、父親27歳、母親28歳で結婚。関東にある父親の実家で結婚生活を始めた。
「遊び人の父は家庭を顧みず、母は父方の家業だった靴屋の切り盛りで、毎日注文をとりに駆け回っていました。そのため、私が物心ついた時には、家にいるのはほとんど祖母と二人きりでした。家庭環境がすこし変わっていたせいか、私は内向的でわがままな子どもでした。本ばかり読んで、同年代の子どもよりずいぶんませていて、偏食が酷く、体も弱く、学校も休みがちで、難しい子どもだったと思います」
山車さんは9歳の時に私立の学校の寮に入れられ、週末のみ自宅へ帰るという生活に。
「父は家に帰らず、母も仕事でほとんど不在だったので、学校のことにはまったく干渉されませんでした。家族で過ごした思い出はほぼありません。ただ5歳くらいの頃、私が熱を出して、たまたま家にいた父に、母が私をおんぶさせて、近くの病院に行きました。途中、父の背中で吐いてしまったのですが、それが私にとって、父に“世話”してもらった数少ない記憶です」
ところが山車さん10歳の時に両親が離婚。原因は父親の不倫とそのせいで作った借金だった。借金のせいで父親は自分が育った家を失い、離婚した母親には慰謝料も養育費もなかった。母親は山車さんと2人で暮らし始めたが、基本的に山車さんは、平日は学校の寮、母親は割烹料理屋で働き、休みの日は母娘で過ごした。
離婚から約2年後、41歳の母親は割烹料理屋で知り合った人からの紹介で、不動産系の仕事をする45歳の男性と再婚した。
振り回される青春時代
継父は厳しく、プライドが高い人だった。そのため反抗期に入った山車さんは、たびたび継父と口論になった。
「継父は、若者文化を目の敵にして、私が好きな音楽や服装をいつもけなしてきました。そしていつも自分が正しいと自慢ばかりしていました」
高2になった時、継父との生活が嫌になった山車さんは、母親と継父の家を飛び出し、実の父親の家に転がり込んだ。
父親は離婚後、元不倫相手だった内縁の妻と自分の母親(山車さんの祖母)の3人で暮らしていた。父親より5歳年上の内縁の妻は、父親が山車さんの母親と出会う前に交際していたが、父親の放蕩ぶりに手を焼いて一度は別れた。しかし山車さんの母親と結婚した後、お互いに思いを断ち切れずに復縁し、不倫関係に陥っていたようだ。
そんな相手との暮らしが手に入ったにもかかわらず、父親は相変わらず遊び歩き、家にはほとんど寄り付かなかった。
山車さんが転がり込んだことでいづらくなったのか、気を遣ったのか、内縁の妻は「自分の母親を介護する」と言って出て行った。
家には80代の祖母が残された。すでに認知症の症状が出始めていた祖母を、高校生の山車さんは、たった1人で介護をすることに。
「祖母は認知症がありましたが、体の不自由はなかったため、お世話が必要なのは食事のサポートとポータブルトイレの始末くらいです。24歳で看取るまで、今にして思えば、私はヤングケアラーでした。しかし、当時の私は祖母について思いやることもなく、最低限のお世話しかせず、いかに寂しい思いをさせたかと思うと償いようもありません……」