舞姫』や『山椒大夫』などの作品で知られる文豪・森鷗外とはどんな人物だったのか。鷗外が官僚として取り組んだ事業について研究する野口武則さんは「軍医として巨大組織の陸軍で出世し、晩年に宮内省の官僚に転じてからもその手腕をいかんなく発揮した」という――。(第2回)

※本稿は、『宮内官僚 森鷗外 「昭和」改元 影の立役者』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

「軍医として陸軍トップ」→「博物館総長」になった心境

宮内官僚として晩年の鷗外が取り組んだ『帝諡考ていしこう』『元号考』は、これまで鷗外作品を研究する学者や評論家の間で注目度は高くなかった。例えば文芸評論家の唐木順三は「清閒の地にふさはしい純考証的な仕事」と評している(唐木、1943年)。

鷗外には「十二月廿五日作」と題する漢詩がある。1917(大正6)年に帝室博物館総長兼図書頭(現在の国立博物館館長と宮内庁書陵部長)へ就任した日付だ。七言絶句の転句に「石渠天禄せききょてんろく清閑の地」とある。帝室博物館と図書寮を、中国・漢代に貴重書が納められた「石渠閣せききょかく」と「天禄閣てんろくかく」という楼閣にたとえ、俗世間に煩わされない「清閑の地」と表現した。唐木の評はこれに倣ったものだ。

ところが、鷗外は同年12月30日に親友の賀古鶴所宛書簡には以下の和歌を書き送った。

老いぬれど馬に鞭うち千里をも走らむとおもふ年立ちにけり

陸軍を退官していた鷗外は、この時56歳。自身を老いた馬にたとえ、歳をとってしまったが鞭を打ってでも千里の道を走ろうという思いだ、と再出仕への意欲を伝えている。

こちらについて唐木は、山県有朋を中心として賀古と鷗外で「何事か政治的な画策をしてゐた跡」が見られる中での「世間的な野心の一表白」と評する。

「清閒」と「野心」の二面性を唐木は指摘するが、鷗外の心情はどちらに傾いていたのだろう。

「十二月廿五日作」の漢詩は前任の帝室博物館総長の股野琢や桂湖南ら著名な漢詩人の添削を経た上で、「大正詩文」に発表されたものである。高級官僚や政治家、帝国大教授らが名を連ねる漢詩の同人誌で、発表される作品は半ば公的なものだ。個人的な心境を吐露したというより、謙遜の意が込められていると見た方がよい。

国立国会図書館 近代日本人の肖像 より
国立国会図書館 近代日本人の肖像(https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/342)より