アジアで日本と同等のサービスを展開するには
28歳のザキは以前、工場で金属を溶かす仕事に従事していた。長時間働き、危険もともなった。新聞で宅急便のSD募集を知り応募。「重い荷物のお届け先が妊婦だったらどうしますか」といった「人間性重視」の面接に通り、11年8月にペナン支店に配属された。そこで1人の日本人と出会う。大学卒業後、郷里の島根県浜田市でSDになって3年の岡山稔昭。同時期に赴任していた。
ヤマトは成長著しいアジア市場に向け、10年から宅急便の本格的な海外進出に着手。上海、シンガポール、香港に続き、11年9月からマレーシアでも事業を開始した。最大の課題はSDだった。「サービスが先、利益は後」。宅急便の生みの親、小倉昌男はそう説いた。SDは単なる「運転手」ではない。1歩外へ出たら担当エリアの「走る現場責任者」となり、どうすれば顧客サービスを最大化し、新しい荷物を獲得できるか、自分で考え、行動することが求められる。
そのSD仕事において、いかに日本と同等レベルの質を確保するか。そこでインストラクター役を国内で募集。「ヤマトスピリッツを伝えたい」「宅急便の精神を移植する」。志願したSDたちの中に27歳の岡山もいた。岡山はSDの仕事に誇りを持っていた。担当エリア内のすべての家の番地を頭に入れ、どの家はどの時間に配達すれば喜ばれるか把握し、誰よりも地域に詳しい自信があった。
ザキは岡山と一緒に行動しながら、SDとは何かを実地で学んでいった。顧客を訪ねたらきちっと帽子をとり、心から礼をいう。配達するのはただのモノではなく、顧客の大切な荷物を扱っていることを忘れてはならない。何より笑顔を絶やさない。マレーシアには宅配業者が大小100社近く乱立していたが、そうしたサービスをするところは1社もなかった。SDになって1年あまり、制服がすっかり体に馴染んだザキは、「ヤマトはディファレント、まったく違う」と話す。