飯の種である「チャンネル登録者」しか見ていない
プレーヤーの多様化によって、会見を「新たな情報を手に入れる場」ではなく、「爪痕を残すことで存在感を示す場」と位置づける人々も増えていった。彼ら彼女らが見ている先は、不特定多数の「情報を知りたい人々」ではなく、「自分に利益を与えてくれるチャンネル登録者やサブスク会員」だ。
特定の顧客に対するパフォーマンスの場として、公であるはずの会見を用いる。それが、フジ会見がカオス化した背景にある、大きな要因ではないかと筆者は見ている。
「登壇者は悪者に違いない」という先入観
質問した人間が爪痕を残しているかは本来問題ではない。重視されるべきは、カギとなる発言を引き出せるかどうかだ。しかし、エンタメ化した会見で、その評価軸になるのは、相手からの「キャッチーな返答」だ。
会見によっては、十分に情報公開がされている、もしくは情報を出しようもないため、「ゼロ回答」となることも珍しくない。そんな時でも、「自分の質問によって、相手が動揺する様子」を用意できれば、ファンに対して顔向けできる。たとえ突拍子もない質問で、回答のしようもない内容であっても、答えに窮しているように見せられれば、支持者は「何か隠している。そこを突いた記者はスゴイ」と喝采する。
こうした構図の下地にあるのは、「圧倒的ヒールである登壇者は、たたかれてしかるべきだ」との正義感だ。ここ数年の謝罪会見に対して、視聴者は「必ずツッコミどころがあるはず」という先入観を持っている。
認識が定着した転換点は、理化学研究所のSTAP細胞疑惑、兵庫県議の「号泣」、そして作曲家のゴーストライター問題といった記者会見が相次いだ、2014年だったと考えている。それ以前にも「ささやき女将」(船場吉兆・2007年)、「私は寝てない」(雪印乳業・2000年)など、後年まで「ネタ」にされる謝罪会見はあったが、より視聴者の視線が鋭くなったのは、このタイミングだとみている。