夏目漱石も家計簿を付けていた

ところで、家計簿、付けていますか?

お金を数える年配の女性
写真=iStock.com/kasto80
※写真はイメージです

私が子どもの頃は、付け払いというのがありました。

たとえば、本の御用聞きが勝手口に来たものでした。私の「少女倶楽部」、兄の「少年倶楽部」を届けてくれたり、母には「婦人公論」と「主婦の友」のどちらにされますかと勧めたりしてくれました。

届けてくれる本の代金は、その場で現金を渡すのではなく、付け払いです。毎月の末に締め、まとめてお金を払うシステムでした。通い帳というものを御用聞きさんが付けているのです。

主婦である女性は現金をほとんど持たず、支払いは夫の役目でした。この頃は、まだお財布を握っているのは男性でした。

あの大文豪夏目漱石の日記に家計簿のような記載が見えます。子どもが病気になって、部屋を暖かくする必要があり、炭代がかさむと嘆いたりしています。お金の管理は彼自身がしていたのです。

家計管理を任されたサラリーマン妻たち

戦後になると御用聞きという形態は衰退します。

魚でも野菜でも、御用を聞いて届けてくれていたのですが、だんだんそういう商売の形がなくなり、主婦たちは買い物に出かけるようになりました。高度経済成長期に夫はサラリーマンになることが多く、日中は家にいなくなりました。女性がお財布を握る家庭が多くなったのです。

現在の費目ごとに管理する家計簿を最初に提案したのは「婦人之友」の創立者の羽仁もと子さんといわれています。

樋口恵子『そうだ!ヒグチさんに聞いてみよう 92歳に学ぶ老いを楽しく生きるコツ』(宝島社)
樋口恵子『そうだ!ヒグチさんに聞いてみよう 92歳に学ぶ老いを楽しく生きるコツ』(宝島社)

明治期に産業化が進む中で、会社員という働き方が出現し、その妻として「主婦」が生まれました。家の管理や記録を主婦の役割にすることを推奨するようになり、その考えを家計簿という形にしたのです。将来的な生活向上を目指し、貯蓄することが奨励さました。

戦中、戦後間もない頃は、国民の生活が苦しく、家計簿を付ける余裕のない人が多かったのですが、戦後もしばらくすると、日本の資本蓄積を増やすために「貯蓄推進運動」が展開されるようになりました。その具体的な施策の一つとして家計簿が利用され、1953年には『明るい生活の家計簿(現:明るい暮らしの家計簿)』が刊行されました。また、「婦人之友」をはじめとする婦人雑誌の付録に家計簿が付けられるようになり、高度経済成長期のサラリーマンの妻たちが、自分に合った形で家計簿を付けるようになったのです。