スポーツ中継は“心が震える”
①事前に練り上げて用意しておいた台本
②その場でとっさに出てきた自分の言葉
スポーツ中継の魅力のひとつは、素晴らしいプレーが決まった瞬間や、偉大な記録を達成した瞬間の場所に立ち会えることです。伝える側は、スポーツの素晴らしさに心震えながら、同時にその場、そのときの状況をもっとも表す言葉を探し、放送にのせます。
オリンピックやワールドカップの名場面集では、それらの印象的なシーンと解説が放送され、観る側に感動をもたらします。解説者の残した「名文句」というものも、いくつか聞いたことがあるかもしれませんね。
前の話に続きますが、私のアナウンサーの師匠である羽佐間正雄さんが、1988年、韓国・ソウルオリンピックで、陸上男子100メートルの実況中継を担当したときのことです。
そのときの1位は、カナダのベン・ジョンソン選手で、ダントツで他を引き離す、9秒79の世界新記録(当時)を打ち立てました。2位は、100分の13秒遅れで、アメリカのカール・ルイス選手。後に大チャンピオンとなる選手でした。
「筋肉の塊」は巧みな表現だった
二人はライバルとして注目されていました。100メートルの後半が強い、追い上げ型のルイス選手に対して、ジョンソン選手は、強い筋力を活かしたロケットスタートが持ち味の選手でした。決勝は、二人の一騎打ちになるだろうと予想されていました。
予選では、ルイス選手が二次予選で9秒台を出したのに対して、ジョンソン選手は着順でかろうじて拾われるなど、不振が目立っていました。しかしフタを開けてみると、決勝ではジョンソン選手が圧勝しました。100分の13秒の差は、距離にすると1メートル半くらいになります。当時の世界新記録、圧倒的な勝利です。
カメラが、ゴールしたジョンソン選手を「ゴールイン! ベン・ジョンソン!」と追いかけていました。その姿を見て、実況の羽佐間さんは一言、「ベン・ジョンソン、筋肉の塊」と表現したのです。私はこの表現に、非常に深い意味が込められていると思いました。
このレースの後の検査で、ジョンソン選手から禁止薬物である筋肉増強剤の陽性反応が検出され、世界記録と金メダルが剥奪されました。そして2位以下が繰り上がり、金メダルは、カール・ルイス選手に与えられました。
このときの実況中継の「ベン・ジョンソン、筋肉の塊」という一言は、「異常なまでのこの筋肉は、ひょっとして?」というクエスチョンマークを観る側にもたらした、とても巧みな表現であったと思います。