「トラック野郎」でエキストラ出演を果たすが…
1978年、田島さんは「1人で入会するのは会に対して格好がつかない」と考え、仲間10人と一緒に哥麿会に入会した。トラック野郎の8作目『トラック野郎 一番星北へ帰る』が公開された後のことだった。
「頑張ればいつか映画に出られると思ったよね。みんなに顔覚えて貰うために宴会で裸踊りとかしていたよ(笑)」
宴会芸の努力はすぐに実を結ぶ。9作目『トラック野郎 熱風5000キロ』、最終作『トラック野郎 故郷特急便』(いずれも1979年公開)に出演を果たした。とはいっても、ワンシーンのみのエキストラ。映画を見てもどこに出ているかわからないほどの脇役だった。
「映画の撮影に参加できてよかったけど、次こそは目立つ役で出たいと思ったよ」
「悔しさをいつか晴らしたい」と思っていたが、シリーズは突然打ち切りに。哥麿会に入会してから約1年しか経っておらず、無念な想いだけが残った。
「トラック野郎のシリーズ後半は人情ものが続いたんだ。『困っている人を見捨てない』という心が描かれていて、それがよかった。『男はつらいよ』みたいにシリーズがずっと続くんだろうし、そのうち自分の車と映画に出られると思っていたんだ。でも、すぐに終わっちゃった。哥麿会のみんなもいなくなってさ。とり残されたような気持ちだったよな」
目的を失った哥麿会
哥麿会は風前の灯だった。
1979年に映画が終了すると多くの人にとって留まる意味はなくなり、数百人いた会員は50人にまで減少。宴会以外に目立った活動もなくなった。
開店休業の状態が3年ほど続いた1981年のある日、2代目の会長も辞めることに。「実務をしっかりこなしていた」という理由で田島さんが後任に推薦された。
3代目の会長に就任した田島さんは「悔しさを晴らしたい」と思っていた。集会を開き、「デコトラの活動をしよう」と他の会員に持ちかけると、「何かやろう!」と盛り上がった。
「自分たちの生き様を表現したトラックを見てもらうには?」
「一般の人を巻き込むイベントにするには?」
話し合った結果、あるアイディアを思いついた。
「誰もが参加できる無料の撮影会を開こう!」