能登半島地震の被災地に、トラックで駆けつける
哥麿会は1月2日から被災地に向かうために準備を進める。
まずは、哥麿会と災害協定を結んでいる群馬県大泉町に連絡を取り、飲料水や使い捨てカイロなどの支援物資の輸送を請け負った。
大泉町からの連絡を受け、炊き出しの場所は約100人の住人が避難している志賀小学校(石川県志賀町)に決定。昼食と夕食の炊き出しを依頼され、つきあいの深い食材の卸売店で焼きそばの材料800食分を手配した。
1月6日午後10時、埼玉・児玉を出発し、1月7日午前7時に志賀小学校に到着した。新潟に住む会員とも現地で合流し、焼きそば・甘酒・豚汁を避難している人たちに提供した。炊き出しは2月、3月も行った。
9月21日の大雨被害が発生した後も大きなデコトラで現地を訪れている。田島さんはこの1年で能登半島の被災地に7回訪れたという。
「こういうのは継続しないと意味がねえからな。それに復興の段階によって必要なものは変わる。元に戻るまで現地に行き続けるよ」
「デコトラ愛好団体」が、なぜ被災地支援をするのか
哥麿会はデコトラの愛好団体だ。
それがなぜ、ボランティア活動にこれほど熱心なのか。
哥麿会の会員4人に理由を聞くと「弱いものに寄り添いたいという会長の想いが強いからだよね」と答えた。弱きを助けるデコトラ集団、哥麿会――。田島さんはどのようにこの団体を作り上げてきたのだろか。その答えは50年に及ぶ田島さんのトラック人生にある。
田島さんは1948年、埼玉県児玉町(現在の本庄市)に生まれた。トラックドライバーになったのは24歳の時だった。父の瓦店を継ぎ、2トンダンプで瓦を運ぶドライバーとして働いた。
「高倉健さんの『新網走番外地 嵐呼ぶダンプ仁義』(1972年公開)を見てダンプに乗りたいと思ったんだよな」
会社は両親と妻に任せ、深夜3時から夕方5時まで、埼玉の北端から東京や神奈川まで往復200キロを走る生活を送っていた。
店を継いで3年が経った1975年夏、27歳の時に大きな転機が訪れる。
映画館で見た「トラック野郎・御意見無用」に胸を打たれた。菅原文太さんが演じる「星 桃次郎」が警察の白バイやパトカーの制止を振り切って、ヒロインを恋人のもとに送り届けるラストシーンは今も鮮明に覚えている。
200万円でデコトラに改造
シリーズ5作目の『トラック野郎 度胸一番星』(1977年)が公開される頃には、トラックドライバーの仲間内で撮影のロケ地が共有されるようになった。田島さんは秋ヶ瀬公園(さいたま市)、東松山市のロケ地に通うようになる。
「仕事で乗っていたダンプはノーマルだったから恥ずかしくてさ。乗用車に乗り変えて撮影を見に行ったよ。そしたら全く相手にされないんだよな。俺は同じトラック乗りの仲間だと思ってたから、さびしさを感じたよ」
ロケ地には大型トラックやダンプカーがずらりと並んでいた。戦艦のような車両を見ているうちに「自分もやりたい!」と気持ちが昂り、ダンプカーを飾ろうと決意する。
地元の業者に依頼し、フロントを虎柄のレザーで包んだ。ランプを増やし、背面には宝船の絵を描いてもらった。総額200万円。大卒新人の月収が10万円ほどだった時代だ。新車で高級セダンを買える金額だったが、仲間も大金を投じていたため驚きはない。むしろ「このトラックに見合った収入を得られるように頑張ろう!」と気合が入った。
「これなら恥ずかしくないだろう」
田島さんは配送の帰りにダンプでロケ地へ通った。